詩篇(その1)

 詩篇は初代教会が好んだ書のひとつです。ですから、新約聖書詩篇が頻繁に引用されているのです。また、わたしたちクリスチャンの日々の歩みの中にも詩篇は用いられています。礼拝において交読され、祈りの中で引用され、訪問において読まれています。特に詩篇23篇を愛唱しておられる方は多いでしょう。このようにしてわたしたちの歩みと深く関わっている詩篇を二回にわたって概観してみたいと思います。
 
I. 詩篇全体を覚える
 詩篇全体は五つの巻に分けられています。第一巻は1〜41篇、第二巻は42〜72篇、第三巻は73〜89篇、第四巻は90〜106篇、第五巻は107〜150篇です。そして、それぞれの巻は「主はほむべきかな」(41:19; 72:18; 89:52; 106:48)と主への讃美をもって終わっています。更に詩篇全体も「主をほめたたえよ」(ヘブル語で「ハレルヤ」)が繰り返される詩篇で終わっています(146〜150篇)。このように詩篇イスラエルの神である主をほめたたえる讃美の書と考えることもできます。同時に、詩篇には讃美の歌以外にも様々な歌が含まれています。たとえば、主への嘆きの祈りや主への感謝の歌や律法についての歌(119篇!)を見いだすことができます。ですから、詩篇を単なる「讃美」の書と考えることはできません。では、詩篇は何をわたしたちに語ろうとしているのでしょうか。
 詩篇のテーマのひとつは、主が立てられた王が危機に瀕していることです。イスラエルを代表する王であるダビデの歌をもって、王の危機が描かれています。地上の様々な国の王たちが立ち上がり、主と主が油注がれた王に反抗しています(2:2-3)。王としてできることは、主に向かって祈り3:1)、主に信頼し、主からの救いを待ち望むことです(3:7-8)。しかし、現実は願っていたようにはなりません。第三巻の最後にある89篇を読む時、主は「油注がれた者を捨ててしりぞけ、彼に対して激しく怒られました」(89:38)と書かれています。都は荒れ果て、王位は奪い取られてしまいました(89:39-45)。もはや希望も無くなりかけています。
 このような中で、イスラエルとその王に救いはあるのでしょうか。あります。それは、この世界のまことの王は人ではない、神である、という信仰から生まれるものです。「主は大いなる神、すべての神にまさって大いなる王だからである」(95:3)とあるように、人間の王がたとえいなくなっても、まことの王である方が、正しい支配をなされるという信仰がイスラエルを救いへと導きます。世界のまことの王である神に従うためには、王である「主のおきてを喜び、昼も夜もそのおきてを思う」(1:2)生き方を選択しなければなりません。実は詩篇のテーマの二つ目は、まことの王である主に従う、それも主が与えて下さった律法に従うことこそ主の救いの道であるということです。119篇に繰り返し書かれているように、主のおきてを味わい、思い、従う時、救いの道が開かれていきます。
 それでは、救いの道を主はどのように具体的に開いていかれるのでしょうか。それは、主がもう一度、ダビデにつながる王、救い主を立てられることによってです(132:17-18)。このメシヤの到来をもって、主に従う民に、主の救いが現実となるのです。そして、救いを目の当たりにする民は主をほめたたえます。
 このように、様々な歌がまとめられている詩篇には大きなテーマが流れています。主が立てられた王の危機、まことの王である主に従うことによる救いの道、そして救いの現れとして送られるメシヤ。イエスこそ待ち望んでいたメシヤであるとの信仰に堅くたった初代教会が詩篇を好んだ理由もこのことからわかるでしょう。
 
II. 讃美の歌
 詩篇には様々な歌が集められています。そのすべてをひとつひとつ紹介することはできませんが、主要となるいくつかジャンルの歌について、考えてみましょう。
 詩篇には多くの「讃美の歌」が含まれています。そして、イスラエルの神がなされた素晴らしいみわざがこれらの詩においてたたえられています。詩篇の中で一番短い歌である117篇を見ながら、讃美の歌の特徴を考えてみましょう。
 まず、讃美の歌は、周りの人々への呼びかけから始まります。「もろもろの国よ」「もろもろの民よ」(117:1)とあるように、たったひとりで神を讃美するのではなく、周りにいる人々が共に主を讃美するように詩人は呼びかけています。それに続いて、主への讃美そのもの、「主をほめたたえよ」(117:1)の言葉が続きます。単に自分一人で主が素晴らしいことを主に向かって語りかけるだけではなく、周りの人々に呼びかけ、その人々と共に主が素晴らしいことを歌おうと勧めることこそ讃美の歌の大切な要素です。讃美はひとりだけで行うことではなく、多くの人々と共に、交わりの中で行うことだからです。
 讃美の歌に含まれているもう一つ大切な要素は、讃美の理由です。「われらに賜るそのいつくしみは大きい・・主のまことはとこしえに絶えることがない」(117:2)とあるように、主がわたしたちにとってどのような方であるか、それを讃美の中で示されています。もちろん、主はさまざまなことをなして下さっています。136篇を見ると、主の天地創造のみわざ、出エジプトのみわざ、約束の地を与えて下さったみわざが記され、これらのみわざのゆえに主を讃美しています。
 
III. 律法の歌
 詩篇には律法に関する歌も多く含まれています。最も有名なのは119篇でしょう。「律法の歌」と言っても、旧約聖書の律法の内容をわたしたちに教える歌ではありません。むしろ、1篇に描かれているように、祝福ある人生、良い人生、喜びある人生を歩むための秘訣が律法の歌には語られています。たとえば、1篇では次のことが教えられています。主に背く人たちの生き方を避け(1:1)、主の律法を味わい、従い、心に留めながら生きる時(1:2)、主からの繁栄をいただくことができる(1:3)。また、19篇では、神によって創造された天が主のことばを語ること(19:1-6)、そして主の律法の言葉がわたしたちの人格を造り変えて行くこと、そしてそれゆえに主の律法が「蜜よりも・・甘い」こと(19:7-10)が謳われています。
 しかし、詩篇を通して教えられるのは律法に関してだけではありません。105篇や106篇は主への讃美の歌ですが、同時にイスラエルの歴史(105篇ではアブラハムから出エジプトに至る主の救いの歴史、106篇では出エジプトにおける主への反逆の歴史)を通して、イスラエルの民がどのように歩むべきかが教えられています。また、37篇では悪しき者が栄えている現実に対して、具体的にどのように向き合うべきなのかが教えられています。
 このように、詩篇は、わたしたちがどのように生きるべきかを教えています。ですから、詩篇を「人生の取り扱い説明書」として読み、教えられることを忘れてはいけません。