ヨブ記26〜42章

 三人の友人との議論を終えたヨブは、もう一度自らの潔白を神の前に訴えます。そして、彼は神からの答えを待ちます。神が与えて下さった答えは、ある意味で予想外のものでした。
 
I. ヨブの最後のアピール(26〜31章)
 ヨブは一貫して自らの潔白を訴えました。むしろ、神こそがヨブの義を奪い取ったのです。そこで、ヨブは最後までみずからの義を保って捨てないと誓約の言葉を述べます(27:2-6)。そして、29章から31章にかけて、神に対する最後の訴えをヨブは述べます。まず29章では過去を振り返り、神がヨブに与えられた祝福(守り、導き、臨在)とその祝福から生まれたヨブ自身の人格を述べます。ところが、突然に神は理由なくその祝福の手を止めました(30章)。主はヨブの声に答えず、ヨブを悩ます者となられました。「幸を望んだのに災いが来た」(30:26)というヨブの訴えは正当なものです。そこで、ヨブは自らの潔白をもう一度神の前に誓います(31章)。そして、主がヨブのいのちを奪い去るのではなく(3章参照)、ヨブの訴えに答えて下さるのを待つのです。
 ヨブの最後の訴えの直前に知恵を探ることに関する詩が挿入されています(28章)。貴金属を採掘する困難さ(28:1-11)に続き、知恵を見いだすことがそれよりも困難であることが綴られています(28:12-22)。過去の賢人たちの言葉に耳を傾けるだけでは不十分です。ですから、ヨブの友人たちは結局知恵にはたどり着けなかったのです。ただ「神はこれに至る道を悟っておられる、彼はそのある所を知っておられ」(28:23)ます。ヨブは自らが苦しみの中に陥ることによって、この困難な知恵を探求する道を歩みはじめました。神に訴え、神からこの隠されている知恵を得ようとしたのです。しかし、ヨブさえもいまだにこの知恵にたどり着いてはいません。
 どこに知恵が見つけられるのでしょうか。「主を恐れること」であり「悪を離れること」こそ知恵です(28:28)。ただし、ヨブは主を恐れていましたし、悪から離れて歩んでいました(1〜2章参照)。しかし、そのような彼も命がけの知恵への探求を続けなければなりませんでした。なぜならば、ヨブは「主を恐れること」の本当の意味をまだ知らなかったからです。
 
II. 神のために語るエリフ(32〜37章)
 ヨブと三人の友人たちの議論が終わった後、エリフ(「彼は私の神」という意)が登場します。エリフはヨブの友人たちが「自分よりも年長者であったので、ヨブに物言うことをひかえて待っていた」(32:4)のですが、ついにこらえ切れず「神のために」(36:2)語りはじめました。年齢を重ね、多くの経験を積むことによって知恵を得ることができるのではなく、「全能者の息が人に悟りを与える」(32:8)と彼は確信していたからです。彼は神から与えられた知恵に則って、神だけが知っておられる知恵(28:23参照)をヨブに語りました。
 それではエリフは何を訴えているのでしょうか、それは、世界の王である神ご自身がこの世界のさまざまな働きに直接関わっておられることです。神は悪を行わず(34:10)、偏り見ることもありません(34:19)。ただ「われわれの悟りえない大いなることを行われ」(37:5)ます。人間が規定した範疇を容易く越えられるのが主なのです。残念ながら三人の友人やヨブは神のなすべきことを規定してしまいました。だから、友人たちは主からの知恵を得ることができず、ヨブは神のみわざを理解できなかったのです。
 
III. 神のヨブに対する答え(38:1-42:6)
 それでは、人間には想像のつかないような神のみわざとはどのようなものでしょうか。
 神がつむじ風の中から現れ、ヨブに直接答えられます。しかし、主はヨブの疑問に対する回答を与えられた訳ではありません。神が造られた世界の姿を示すことによって、特に「あなたは〜したことがあるか」との問いかけの形をとることによって、ヨブの無知を指摘し、ヨブの考えを超えた神のみわざを示しています。
 まず、神は直接あらゆる出来事に介入される方ではなく、むしろ境を定め、その中にある限りはある程度の自由を与えられます。洪水による混乱が起こりうるような状況であっても、海の水のために「境を定め、関および戸を設けた」(38:10)とある通りです。確かに、ヨブのいのちが取り去られないように境を定め、守られたのも神です(2:6)。そして、それ以外は訴える者の自由に任されたことが思い起こされます。
 次に、神は人からみたならば無駄と思えるような行動を起こされ、愚かに思えるような存在をも喜び、自慢される方です。「人なき地にも、人なき荒野にも雨を降らせ、荒れすたれた地をあき足らせ、これに若草を生えさせる」(38:26-27)姿は、効率を考える人間の生き方の正反対です。しかし、神はこのような「無駄遣い」さえも喜んで行われています。更に、やぎの子の誕生の不思議とその子の親への無情(39:1-4)、命令を聞かないが自由に生きている野ろば(39:5-12)、知恵を全く持っていないが馬よりも早く走るだちょう(39:13-18)。人が「愚かだ」と片づけるような存在を神は喜び、自慢しておられます。その一方で、馬とタカのもつ特別な能力を与えられたのは神です(39:19-30)。神は、功利主義にとらわれることなく、自由に与え、創造されたものすべてをこころから喜んでおられます。むしろ、ヨブはこの神の自由を全く理解していませんでした。
 神話上の怪物であるベヘモト(口語訳では「河馬」)やレビヤタン(口語訳では「わに」)は人に忌み嫌われるような存在でした。しかし、神は彼らを自慢しておられます(40:15-41:34)。ベヘモトは人同様に神が造られた存在であり、「神のわざの第一のもの」(40:19)です。レビヤタンの力とその美しさに並ぶべきものは存在しません。人間の価値観を越えて、むしろ自らがいのちを与えた存在を心から喜び、誇るのが神です。
 ヨブは、神をおそれ、正しく歩んでいた自分が神の創造物の頂点にあると考えていました。だから自分の苦しみの理由を神に求め続けたのです。しかし、ヨブの考えは間違っていました。ヨブのみならず(1〜2章参照)、彼から見て愚かに思えるような存在さえも神にとっては自慢なのです。このことことにヨブは気づき、彼は今までの考えを捨てました(42:6)。
 
IV. エピローグ(42:7-17)
 ヨブの理解がすべて正しかったわけではありません。しかし、彼の神に向かって祈り続けるその姿勢のゆえに、「ヨブは神について正しいことを語った」と認められました(42:8)。そして、主はヨブの繁栄をもとに返し、すべての財産を二倍にされました(42:10)。
 繁栄は元に戻りましたが、ヨブ自身はこの経験を通して変わりました。彼は新しい意味で知恵を獲得し、「神をおそれる」ようになりました。また失うかも知れない財産を主から受け入れています(42:12-13)。これは簡単なことではありません。更に、彼は自分の三人の娘が美しかったというただそれだけの理由で、兄弟たち同様に嗣業を与えています(42:15)。
 どのような富もいつ失うかわかりません。ヨブはそのことを知っています。しかし、重々承知の上で、喜んで受け、喜んで与えるヨブに変わりました。一生懸命に柵を設けて子どもたちを守る過保護のヨブではなく、今与えられているものを気前よく分かち合う親になりました。神が自らが造られた存在を誇られたように、子ども達を喜ぶ者となったのです。神のように歩む、自由と喜びをもって生きるという意味で「神を恐れる」知恵をヨブは獲得したのです。