空と救済

 いちおう、大乗仏教の空についての結論部分。
 
 それでは、一切が空であることは大乗仏教におけるいわゆる救済とどのように結び付いているのだろうか。
 人の迷いとは、その行為に伴われた煩悩から引き起こされると仏教は考えている。そして、仏教における救済は、この迷いからの解放、つまり解脱と捉えることができる(梶山91)。
 中論に記されている龍樹のことばから、解脱について考えてみよう。

「行為と煩悩が尽きることから解脱がある。行為と煩悩は計らい(分別)から生じる。それら〔の計らい〕は多様〔な思い〕による。そして多様〔な思い〕は空性において滅せられる(18:5)」(梶山90)。

煩悩と行為は「分別」が根拠となって生まれてくると龍樹は考えた。ここで言う分別とは「二つにわけること」、すなわち「判断あるいは分析的な思惟」を指している(梶山91)。分別の例として、あるものを「好ましいもの」と「好ましくないもの」と分けることを梶山は上げている。人があるものを「好ましい」と判断することによりその対象に執着したり、逆に「好ましくない」と判断することによってその対象を避けたりする。このことによって煩悩と行為が生まれ、その結果、迷いが生ずる(梶山92)。分別は迷いの原因である。
 さらに突っ込んで考える時、分別は「多様な思い」から起こると考えられる。「多様な思い」とは「単一なものが種々様々に発展すること」を指し、「単一で全体的であった直観の世界を・・複数の概念に分割すること」(同上)である。梶山は人がある部屋に入ることを例として挙げている。当初、人は部屋を一つのものとして意識している(直観)が、すぐに天井だ、机だ、壁だ、人だと分析し、様々な概念に分けていく。その結果、最初の「単一性と全体性は、分断されて失われてしまう」(梶山94)。直観の純粋性が壊されてしまう。その結果、煩悩と行為が生まれ、迷いが生ずる。
 それでは、迷いの道から逃れるためにはどうしたら良いのか。それは、「あまりにも人間的な、多様な思い、判断、思惟、それに続く煩悩と行為を捨てる」ことによって可能となる(梶山96)。言い換えると、多様な思いが「空」、つまり何ら実体をもたず、無常であると理解するならば、解脱へと進むことができるのだ。
 なぜ多様な思いを空と断じた時、解脱に進むことができるのであろうか。次の龍樹のことばを考えてみたい。

「心の対象が止滅するときには、ことばの対象は止息する。というのは、ものの真理(法性)は涅槃のように、生じたものでも滅したものでもない(18:7)」(梶山90)。

多様な思いを空と断じる時、対象の概念化はなくなる。さらに、対象を認識して、それをことばで表現することもない。つまり分別せず、むしろ本当のありのままの姿を直観できる(梶山94)。さらに、龍樹は続ける。

「他のものをとおして知られず、静寂で、多様〔な思い〕によって多様化されず、計らいを離れて、種々性を超える。これが真実の形である(18:9)」(梶山90)

人間の概念やことばによってものを認識しなくなる時、人はものそのものの真実に行きつく。なぜなら、ものそのものは人の概念やことばを超えているからである(梶山98-99)。その一方で、人の概念やことばでものそのものを固定化してしまう時、つまりものそのものが空であることを否定する時、煩悩と行為が生まれ、迷いが生ずるからだ。
 以上のことから考える時、「一切は空である」と理解することによって煩悩からの解脱への道へ進むことができると龍樹は考えていたことがわかる。