空の思想

 今月は仏教(特に龍樹)の空の思想とコヘレトの空の思想について考える。後者は、すぐにかけるので、ほとんど心配していないが、前者が問題。
 とり合えず、一冊、肝要な本を読み、今日、少しメモを取り出す。
 龍樹の空の思想を理解するために、考えるべきことは何だろうか。まず、「空」とはなにかの定義。しかし、この定義を明確に示すためには、龍樹が論争していた相手の考え方について述べる必要がある。「無常でないものがある」という考え方の一派に対して、龍樹は「すべてが無常である」言ったのだから。
 龍樹の「無常」の発想の背景には、縁起の思想がある。そして、縁起の思想のゆえに、無常でない実体は存在しない。だから、すべては空なのである。中村元の本を読みながら思ったのは、「空」とは「からっぽ・無」という発想ではない。空とは無常である、と書かれていたが、まさにそれが龍樹の思想な訳だ。
 認識論と存在論の関係も、述べる必要があるだろうか。認識できるものは存在するのか、それともに認識は疑うべきものなのか。龍樹はどうも後者であり、これも「無常でないものがある」という発想に対する批判となる。
 最後に、空であることを悟ることと救済に関して。どうも、すべてが空である、無常であることを認識することによって、人は救済されるようだ。
 ここまで考えてくると、コヘレトの空と龍樹の空には類似点と共に大きな相違点があるように思えてくる。どちらも「空」は「無」ではない。どちらも「空」は普遍的である(除外されるものがない)。コヘレトの空は「蒸気」であり、龍樹の空は「無常」である。前者は「人には把握できない」ことを示唆し、後者は「すべてが移り変わる」ことを意味する。どちらも、空であることを知ることによって、この世界においていかに生きるかが変わってくる。後者は救済を意味するが、前者には救済というニュアンスはない。前者は神の存在が大前提だが、後者に神は存在しない。従って、前者は「神学的思索」に基づくが、後者は「哲学的思索」に基づく(この当たりのことばの定義は難しいが)。
 うう〜ん。とり合えず、思いつくことをそのまま、流し込んでみた。これがまとまっていくのだろう。