列王紀下13章〜25章

 紆余曲折を続けてきたイスラエル王国ユダ王国の歴史ですが、それもついに最終章に到達します。メソポタミアを治める列強諸国によってそれぞれが滅ぼされていくのです。しかし、この出来事は単なる歴史の偶然ではありません。列王紀の記者はこれらの出来事の背後に、主のみこころをしっかりと見て取っています。
 
I. サマリヤの崩壊と北王国の滅亡(13章〜17章)
 クーデターによってオムリ一族を追いやり、北王国の王となったエヒウの死後、彼の子エホアハズが王となり、さらに続いてその子であるヨアシが王となりました。当時、北王国は隣国のスリヤとの戦いの中にありました。しかし、不信仰の中にもこれらの王たちは主に願い求めたので、主は来た王国に救助者を与えられました。その一方で、これまで北王国において王たちに警告の声をあげていた預言者エリシャもその死を迎えました(13章)。
 その後、北王国はヤラベアム二世の治世に政治的、経済的に最盛期を迎えます(14:23−29)。この王の時代、北王国の領域はハマテの入り口からアラバの海まで回復しました(14:25)。東はシリヤの境まで、南は死海まで国の勢力が拡大していきました。それは、メソポタミアを支配していたアッスリヤがまだ力を北王国にまでは延ばさず、むしろ隣国シリヤがアッスリヤによって弱体化されていたからだと考えられます。しかし、このような繁栄を享受しつつも、「イスラエルの悩みは非常に激しい」(14:26)のでした。経済的な繁栄によってむしろ貧富の差が拡大し、不正が横行していたからです。当時の様子については、アモス書に詳しく書かれています。
 ヤラベアムの死後、アッスリヤがその影響力を来た王国に伸ばし、それゆえに北王国は衰退していきます。そして、ペカが王であった時代、アッスリヤの王テグラテピレセルは北王国を攻め、民の一部をとらえ、アッスリヤへと彼らを捕らえ移しました(15:29)。その後、スリヤの王レヂンとベカは相計らい、ユダ王国を攻め上りました(16:5)。それはユダ王のアハズが親アッスリヤへの姿勢をとっていたからです。ユダ王国の危機を知ったアッスリヤは、その報復としてスリヤの都ダマスコを攻め、これを取りました(16:9)。北王国は命拾いしましたが、続くホセア王はアッスリヤに背きました。その結果、サマリヤは破壊され、北王国は滅亡し、人々は捕囚へと移されていきました(17:1-6)。紀元前721年、北王国はその終わりを迎えました。
 17:7−23に北王国が滅ぼされた理由が記されています。それは単なる歴史の偶然ではありません。イスラエルをエジプトの王パロのてから救い出された主を礼拝することをせず、むしろ、異邦人の神々を敬ったからです。もちろん主は背いている彼らを放ったらかしにしておかれた訳ではありませんでした。預言者を送り、悪い道から離れ、主の戒めに従うように警告を与えられました。しかし、かたくなな民はその警告を軽んじ、最後まで主に従うことを拒みました。その結果、北王国は滅ぼされるに至りました。なお、北王国の民が主を拒み続けたことを象徴的に表しているのが、ヤラベアムがつくった金の子牛を礼拝し続けた点です。
 
II. ユダ王国の改革(18章〜23章)
 北王国が繁栄と凋落と滅亡を経験している中、ユダ王国は親アッシリヤの政策を採用することによってなんとか生き延びていました。しかし、残された王国にも危機は訪れます。ヒゼキヤが王の時代、ヒゼキヤは親アッスリヤの方針を変えました。その結果、アッスリヤの王セナケリブはユダを攻め、エルサレム以外のすべての堅固な町々を次々と取っていきました。そして、エルサレムも完全に包囲されている時(紀元前701年)、アッスリヤの将軍ラブシャケは「あなたが頼みとする者は何か」(18:19)とヒゼキヤに迫りました。エジプトを頼みにしても無駄である、そして主なる神を頼みにしても無駄である、と激しい言葉を彼は告げました。ヒゼキヤが「主は必ず我々を救い出される。この町はアッスリヤ王の手に陥ることはない」と言ったとしても、主に信頼してはいけない、とラブシャケは続けました(18:30)。しかし、ヒゼキヤは「イスラエルの神に、主に信頼した」(18:5)とあります。彼は宮廷付きの預言者であるイザヤと通して語られる主のことばに信頼し、「主であるあなただけが神でいらせられることを知るようになる」ようにと祈りました(19:19)。そして、その夜、アッスリヤの陣営は主に打たれ、彼らは立ち去りました(19:35−37)。このようにして、主に信頼する王がいたから、ユダ王国は最悪の状況から救い出されたのです。
 しかし、ヒゼキヤの息子であるマナセはヒゼキヤとは全く逆の行動を取り、バアルのための祭壇を築き、主の神殿を汚しました。その結果、主はエルサレムとユダに災いを下す、サマリヤと同じ災いがエルサレムに望む、と宣言されました。主の律法に従わなかったからです(21:1-18)。
 ただ、この災いの到来はしばらく延ばされました。それはマナセの孫であるヨシヤが王となった時、彼は主の神殿を修理し、そこで見つかった律法の書の言葉に耳を傾け、民と共に悔い、主の前にへりくだり、宗教改革を断行したからです。偶像の祭壇はすべて除かれ、むしろ過ぎ越しの祭りを執り行いました(22〜23章)。しかし、ユダ王国への主のさばきはただ延ばされただけであり、やがてエルサレムの町の上に災いが襲いかかるのです。
 
III. エルサレムの崩壊とユダ王国の滅亡(24章〜25章)
 ヨシア王がメギドにおける戦で悲劇的な死を遂げたあと(23:29−30)、パレスチナは一時的にエジプトの勢力下に入りました。エジプト王であるパロ・ネコはエホヤキムをユダの王とし、重い貢ぎを課せました。その一方で、アッシリヤにかわってバビロンがメソポタミアでその力を伸ばし、カルケミシュの戦い(605年)でエジプトを破ったあと、ユダ王国にまで手を伸ばしてきました。一時はバビロンに隷属していたエホヤキム王は、愚かにもネブカデネザル王に反逆し、次のエホヤキン王の治世にはエルサレムがバビロン軍に包囲されてしまいました。王はバビロンに降伏し、第一次バビロン捕囚が598年に行われました(24:10−17)。
 ゼデキヤ王は、バビロンによって立てらたので当初は帝国に従順でした。しかし、バビロンに起こった混乱に乗じて彼は帝国に背きました(24:20)。その結果、バビロン軍はエルサレムを取り囲み、兵糧攻めをしました。ついに町の城壁が破れ、それに乗じて逃亡しようとしたゼデキヤ王はバビロンに連行され、神殿と王宮は火で焼かれ、エルサレムの城壁は破壊されました。エルサレムは廃虚と化したのです(25:1-12)。このよにしてユダ王国は滅亡し、神殿は跡形も無くなり、王は途絶え、人々はバビロンへと捕らえ移されました(紀元前586年)。預言者を通して予告されていたことが、ついに現実となってしまいました。
 それでは、もう、なんの希望もないのでしょうか。興味深いことに、列王記下はバビロンに捕らえ移されたエホヤキンが獄屋から出され、王の前で食事をしたという記事をもって終わっています(25:27−30)。悲劇の中にも主の憐れみのみわざが始まっていることが示唆されています。そして、主のいつくしみは驚くような形でユダの民の上にあらわされるのです。