サムエル記上1~15章

 士師記は「そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」(士師21:25)の言葉をもって幕を閉じています。暗黒時代のイスラエルに秩序を回復するために、主は王を立てることを選択されました。そして、王制への移行期に主が用いられたのが最後のさばきつかさであるサムエルです。
 
I. エリとサムエル(サムエル記上1~7章)
 イスラエルに王はなく、国に無秩序が蔓延し、民はほしいままに生きていました。そして、国をおおう暗闇は、シロにある幕屋に仕える祭司エリの息子たち−「よこしまな人々で、主を恐れ」ていない(2:12)−にまで広がっていました。民のささげもののうち、脂肪を焼いた後に残った肉が祭司たちに与えられる分であったにもかかわらず、彼らは生の肉を求め、主の供え物を軽んじました(2:12-17)。更に、エリの息子たちは礼拝所に仕える女たちと関係を持っていました(2:22)。更に、父が彼らの悪しき行動を指摘しても、彼らは一向に耳を傾けません(2:25)。
 そのような状況の中で、子どもを産むことのできないひとりの女性を主は顧みられ、彼女を通して暗黒のイスラエルに光を与えようとされましたす。エフライム人エルカナの妻、ハンナはエルカナのもうひとりの妻ペニンナから悩まされ、夫エルカナにも子どもを産むことのできない自分の悲しみを理解してもらえない暗闇の境遇にありました(1:3-8)。そのような中、彼女はシロに行き、礼拝所で主にあわれみを祈り求めました。祭司エリさえも彼女が酔っていると誤解し、叱責しましたが、イスラエルの神である主は彼女の祈りに応え、男の子を与えられました。彼女は産まれてきた子を主にささげ、祭司エリの下におき、礼拝所に仕える者としました(1:9-28)。この男の子こそ、主がイスラエルに備えられた光、最後のさばきつかさ、サムエルです。
 この暗黒時代、主から民への言葉はまれになっていました(3:1)。ところが、主が選ばれたサムエルは、幼い時に主の呼ぶ声を礼拝所で聞きました。そして、主は、先に神の人を通して与えていた預言(2:27-36)、エリの家を永久に罰する預言をそこでサムエルに告げられました(3:2-18)。この時以降、主はサムエルと共にあり、その結果、人々はサムエルを主の預言者と認めるに至ったのです(3:19-21)。
 サムエルの時代、イスラエルは、海岸沿いに住むペリシテ人の土地をめぐる激しい戦いの中にありました。敵に打ち勝てないのを見た民は、シロの礼拝所におかれていた主の契約の箱を戦いの最前線に携えようとしました。主の臨在が陣営に留まる、そうすればペリシテ人を徹底的に打ち負かすことができる、と信じていたからです。残念ながら、契約の箱の存在そのものは何の効果も生みださず、イスラエルはみじめに破れました。さらに、契約の箱は奪われ、エリの二人の子も殺され、息子の死の知らせを聞いたエリも命を失ってしまいました(4章)。このようにしてエリ一族に関する主の預言は成就しました。主の臨在に力がなかったからイスラエルは負けたのでしょうか。いいえ。ペリシテ人の町アシドドにおかれた主の箱はペリシテの神々を倒し、災いを町に及ぼすほどの力を持っていました。そして、主の箱のもたらす災いを見たペリシテ人は、それをイスラエルに送り返しました。そして、箱はベテシメシ、後にキリアテ・ヤリムに安置されました(5~6章)。
 成長したサムエルはイスラエルのさばきつかさとなり、民に「バアルとアシタロテを捨て去り、ただ主にのみ仕えよ」と命じました。イスラエルはサムエルの声に耳を傾け、断食して罪を告白し、主にのみ仕えることを決意しました。その結果、ミズパに攻め寄せてきたペリシテ人を追撃することができ、国に一時の平和が訪れました。
 
II. 王制を求める(8章)
 しばらくの平和が続きました。しかし、年老いたサムエルの息子たちはエリの子たち同様にさばきを曲げ、イスラエルに害悪を及ぼすに至りました。そこで、イスラエルの長老たちはサムエルに王を立てるように願い出ました。
 王とさばきつかさとはどう違うのでしょうか。さばきつかさは、ある部族を治め、彼らの戦いを導く程度の力しか持っていません。また、さばきつかさの時代には、各部族がそれぞれ独自に考えて行動することも可能でしたから、部族の間の結びつきはたいへん緩やかなものでした。しかし、王は、イスラエルのすべての部族を治めます。そして、王から遣わされた役人たちによって伝えられた王の意向にすべての部族が従うことを求めました。ですから、王が誕生すれば、軍隊や王の所有地での働きに民が徴用されるようになります。人だけではありません、農作物、家畜、奴隷なども王の意向に従って提出するように求められます(8:10-19)。これまで独自に行動を行っていた各部族は王によってまとめられ、より強力な軍事力を持ち、敵に当たることができるでしょう。しかし、各部族が持つ自由は制限されるでしょう。更に、王の登場はイスラエルが「他の国々のよう」になること(8:5, 20)であり、主が王であることを認めない現れと理解されていました(8:7)。
 この用に、民の願いに対して、サムエルは王制の問題点を指摘しました。主も当初は王制を敷くことに対して好意的ではありませんでした。しかし、主は「民の声に聞き従い、王を立てよ」(8:22)と、イスラエルに王制を敷くことを最終的には認められたのです。
 
III. サムエルとサウル(9~15章)
 主は、イスラエル初代の王としてベニヤミン族のキシの子サウルを選ばれました。そこで、ろばを捜してサムエルのところに来たサウルに、サムエルは油を注ぎ、「主の民を治め、周囲の敵の手から彼らを救う」王に任職しました(10:1)。このことは当初、秘密にされていました。しかし、ミズパでイスラエルのすべての部族の前でくじを引いた結果、サウルが王に選ばれましたので、サムエルは民の前で彼を王として任命しました(10:17-24)。当初、サウルは王としてすべての民に受け入れられた訳ではありませんでした。しかし、アンモン人に攻め囲まれたヤベシ・ギレアデの救出に成功したことをきっかけに、人々はサウルを王として受け入れました(11章)。
 王がイスラエルに立てられた時、サムエルは民に「民も王も共に主の声に聞き従いなさい」と最後の勧告を与えました。聞き従わない時、主は王と民を攻める、とも警告しました(12:14-15)。ところが、王はこの勧告は簡単に破ってしまうのです。ペリシテ人と戦っている時、サウルはギルガルで民と共にサムエルの到着を待っていました。しかし、七日待っても来ないので、サウルはサムエルに替わって主へ犠牲をささげました。民が離散するのを恐れていたからです(13:5-9)。しかし、サウルの行動は主の命令に対する不従順であり、主は他の者を王に立てる、と直後に到着したサムエルは断言しました(13:13-14)。更に、サウルはある戦いにおいて、「夕方まで、わたしが敵にあだを返すまで食物を食べる者は呪われる」(14:24)という無謀な誓願を立てました。その結果、信仰に堅く立って勇敢に戦っていたヨナタンの命が危機にさらされました(14章)。
 そして、アマレク人との戦いにおいて、「アマレク人のすべての持ち物を滅ぼせ」という主の命をサウルは軽視しました。そして、アマレクの王をゆるし、肥えた家畜を自分たちのために残し、すべてを滅ぼし尽しませんでした(15:9)。主を恐れず、むしろ民を恐れたからです(15:24)。主はサウルを王としたことを悔い、別の王を立てられることを決意されました。このように、イスラエルに王制は始まりましたが、まだふさわしい者が王として立てられてはいませんでした。