歴史的批評学を用いることの必要性

これはまだ現在進行形の考えを投げているだけ。決して引用しないように。私の考えは変わります。

 聖書を学びに当たって歴史的な考え方は必要ないのだろうか。単に聖書のテキストの最終形態を学べば良いのだろうか。そうではない。聖書そのものがある特定の時代のある特定の言語を語るある特定の文化を持つある特定の人々によって生み出された事実と、それを読もうとしているわたしたちがある特定の時代のある特定の言語を語るある特定の文化をもるある特定の存在である事実を鑑みる時、歴史的な考え方、専門的な言い方をすれば、歴史的批評学を欠いてはいけない。
 Paul Achtemeierが言っていた話。紀元1世紀の漁船がガリラヤ湖の泥の中から発見された。そこで、それを保存しようとしたが、外気にさらしているとだんだん材木が劣化していき、形を残せなくなった。そこで、ガリラヤ湖の地中と同じ温度かつ湿度の特別な部屋を用意し、そこに入れた。すると、その漁船は劣化することなく、保存することができた。日本で言うと、高松塚古墳の壁画の保存方法なども、このような点をもっと考慮に入れていた良かったと思える。
 この例話が示唆することは、歴史的な性質を持った文書(「歴史的な性質」とは「ある特定の時代のある特定の言語を語るある特定の文化を持つある特定の人々によって生み出された」ということ)を「適切に」読み解くためには(「正確に」でもいいが)、その文書の持つ歴史的な文脈の中において読むことが必要だ、ということ。文書の持つ歴史的文脈に入り込んで、あたかもその文書があてて書かれた人の立場に立って読むことが大切である(「著者の意図」という発想もあるが・・・このあたりはややこしい)。この「文書の持つ歴史的文脈に入り込んで、あたかもその文書があてて書かれた人の立場に立って読む」ために必要な手法が歴史的批評学である。読もうとするわたしたちの歴史的文脈のもつバイアスを適切に理解し、その影響をできる限り取り去るステップが必要である。更に、聖書の文書の持つ歴史的文脈をしっかりと把握するステップも必須である。この二つが現実となった時、聖書のテキストが語ろうとしていることを「適切に」読み取ることができるだろう。
 ただここであえて「適切に」としたのは、どこまでいっても完全に自分の歴史的文脈から離れて、文書の歴史的文脈に入り込むことは不可能だからである。だから、「完璧に」読み取ることは不可能だろうが、数学的に言えば、「誤差の範囲内」で適切に読み取ることは可能であろう。さらに、歴史的批評学を真剣に適用する時、わたしたちは自らの知識に限界があることを知るはずである。なぜならば、どこまで行っても聖書の文書の歴史的文脈をマスターしきることは不可能だからである。言い換えれば、データは必要十分そろってはいない。