聖書の霊感

以下の文章は、「現在進行中」の考えであって、「結論」ではないので、勝手に引用しないで下さい!変に誤解されたくないので。

 聖書の神学的な理解を深めるに当たって、聖書の霊感をどう考えるべきだろうか。まず、スタンダードな表現は「旧新約聖書は神の霊感を受けている」というものである。この表現を厳密に理解すると、旧新約聖書プロテスタントにとっては66巻)の「テキスト」そのものが神の霊感を受けている、という意味となる。つまり、霊感の焦点は、正典である聖書のテキスト、その最終形態である。言い換えるならば、聖書の霊感は第一義的にその最終形態のテキストの性質に関するものであって、テキストに記述されている歴史的な出来事やテキストの著者、編者、伝統ではない。
 しかし、このように書くと誤解を受けそうなので、注釈を付けなければならない。あくまで「第一義的に」出来事、著者、編者、伝統ではない、といっているだけであって、出来事、著者、編者、伝統にも神の霊が働いていることを否定しているわけではない。むしろ、現在わたしたちが手元に持っているテキストの誕生からその編集に至るまで、神は特別に働いておられた(預言は人々が聖霊に感じ、神によって語っている[2ペテロ1:21]し、神は預言者たちにより父祖たちに語られている[ヘブル1:1])。更に、66巻が選ばれ、それが旧約聖書新約聖書としてまとめられた過程にも聖霊が働いておられる。つまり、聖霊による感動(霊感)は正典成立のあらゆるプロセスにおいて見いだせるものであり、これによって聖書が教会から神の賜物であることが確かなものとされたわけである。したがって、聖霊の特別な働きという観点から見るならば、聖書のテキストが現在の正典における最終形態に至るまで、すべての側面で「霊感」が働いたのである。
 「聖書の霊感は第一義的には正典である66巻のテキスト、その最終形態に対するものである」という考え方から示唆されることはなんだろうか。聖書の神学的な考察において、考古学、歴史学、社会科学、批評学などは有益であるが、それは「最終形態のテキストの意味を理解する上での助け」として有益である、という点。あくまでも最終形態のテキストに焦点を当て続けるべきであって、その前史ばかりに気を取られていては、聖書の神学的考察はできない。たとえば、「現代の歴史学の観点から、葦の海で出エジプトの際に起こった出来事は何か」という問いは、歴史学的には大切な問いかけである。聖書の記述と実際に起こったこととの間に違いがあるのか、ないのか、を現代の歴史学の観点から見直すことも必要であろう。神が具体的にどのように働かれたかを知りたいという現代人の願いは切実なものである。しかし、「実際起こった細かいことを見いだしたら、教会に対して神が葦の海での出来事を通して語ろうとしたことがより明らかになる」と言い切ることはできない。もちろん、最終形態のテキストの意味がさらに深められるという点で有益ではある。しかし、聖書の神学的理解という観点からいうならば、それ以上の価値はない可能性が高い。