レビ記

 宿営の真ん中に民と共に移動する幕屋が完成したあと(出エジプト40章)、主はモーセに幕屋における礼拝について、さらにその幕屋を中心にするイスラエルの民の生き方について語っています。それがレビ記です。現代に生きるわたしたちにとってはなじみのない規則が並べられているために取り組みにくい書ですが、イスラエルの民にとっては欠くことのできない書でした。なぜでしょうか。主から溢れるばかりの祝福をいただくためには、幕屋を中心に形成された一定の境界を適切に守る必要があったからです。この境界は、祭司、レビ人、民、そして異邦人の間に作られたものでした。そして、幕屋に近く奉仕する者ほど(つまり祭司ほど)厳しい規定を守らなければなりませんでした。それは主が与えてくださった境界が曖昧になってしまった時、祝福ではなく厳粛な裁きが訪れたからです。
 
I. 犠牲に関する律法(1-7章)
 レビ記の冒頭には、主によって定められた五つのささげものの規定が書かれています。ささげもの全てを完全に焼き尽くす燔祭または全焼のいけにえ(1章)、穀物からつくられる素祭または穀物のささげ物(2章)、主への感謝を表すささげものであって、動物の脂肪のみが焼かれる酬恩祭または和解のささげ物(3章)、主の戒めを誤って背いた時にささげられるべき罪祭または罪のためのささげ物(4:1-5:13)、罪祭と同じ特徴をもってはいるが、同時に償いが求められる愆祭または罪過のためのささげ物(5:14-6:7)。最初の三つは、主への香ばしいささげ物、つまり感謝と礼拝の現れです(1:9; 2:2; 3:5)。しかし、後半の二つは、罪のゆるし、つまり断たれた主との交わりが回復されるためのささげものです(4:20; 5:16)。
 これらのささげものの規定の特徴を挙げておきましょう。まず、礼拝者はいつもささげもの、それも傷のないよいささげものをもって主の前にでること。その人に主が与えてくださった富に応じてささげること。ささげものによって罪のゆるしが与えられるのは、「誤って犯した罪」に対してであること。そして、ささげものは主がイスラエルに与えられたご自身との交わりの手段(交わりの回復とその感謝のための手段)、つまり主からの賜物であること。
 
II. 犠牲をささげる祭司の任職(8-10章)
 アロンとその子孫からなる祭司は、イスラエルの民のささげものを幕屋において主にささげる責任が委ねられていました。ですから、彼らは特別にその職に任じられる儀式が必要でした。アロンは特別な服を着せられ、頭に油を注がれました。アロンの子たちも同様でした(8:1-13)。さらに、彼らの任職のための罪祭と燔祭がささげられ、雄羊の血による儀式が行われ、幕屋の入り口に一週間留まるように命じられました(8:14-36)。最後に、アロンは自らのために罪祭と燔祭をささげ、民のために罪祭と燔祭と酬恩祭をささげ、祭司の任職を完了しました(9章)。
 これほど注意深く行われた任職ではありましたが、自らの責任について十分に注意深くないアロンの子たちにとっては不十分でした。そのため、ナダブとアビフは異なる火をたき、主に焼き滅ぼされました(10:1-3)。この時に主の言われた言葉は傾聴に値します。「わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう」(10:3)。祭司として任職を受けたということは、他の人々よりも聖なる主に近づく特権と責任が与えられたことを意味しています。これは祝福であり、かつ危険なことです。なぜならば、十分に準備をせず、安易に聖なる主に近づく時、主の聖なる栄光はその人を焼き尽くすからです。ささげものをささげる特権にあずかっている祭司が、彼らを守るために主から与えられた境界を曖昧にしたならば、主から災いをうけます。聖なる主の前に出る者には守るべき境界線があります。
 
III. 聖なるものとそうでないものを見分ける律法(11-16章)
 祭司は単に犠牲を幕屋においてささげる務めだけではなく、民を教える務めが主から与えられていました。「これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとを区別をすることができるため、また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」(10:10-11)とあります。祭司たちが民に教えるべきことは、聖なるものとそうでないどこにでもあるものとを区別することでした。つまり、聖なる民として守るべき境界がどこにあるか、でした。そこで、きよくて食べることのできる動物とそうでない動物(11章)、出産における汚れの規定(12章)、重い皮膚病とそれに類する問題を区別する規定(13-14章)、肉体からの様々な流出に関する規定(15章)が書かれています。人がきよい、すなわち幕屋(主の臨在の前)に近づくことができる時とそうでない時との区別をこれらの規定に従ってつけるように人々は教えられました。聖なる主の前に出ること、それは決していい加減に行えることではありません。自ら備えるべきことです。ですから、主の前に出る時、祭司はもちろんのことあらゆる民が、それぞれにふさわしい形で整えられるべきです。そして、そのために年に一度特別に持たれたのが、「大いなるあがないの日」でした(16章)。その日、アロンは自分のために、そして民のために罪祭をささげ、二匹の山羊のうちの一匹を犠牲としてささげ、一匹を荒野へ送る儀式が行いました。儀式を通して主との交わりが回復された後、アロンは自らと民のために燔祭がささげました。このようにして、イスラエルの民が聖なる国民として主に仕え、主と共に歩むことを継続して可能とするために備えられたのが「大いなるあがないの日」でした。
  
IV. 神聖法典(17-27章)
 さて、主の前に聖であり続けるために、気をつけるべきこと、守るべき境界は数多くありました。それらの規定がレビ記の最後にまとめられています。肉を食する時の規定(17章)、エジプトやカナンの国々の習慣、特にその性的不道徳、社会正義の欠如、偶像崇拝を模倣することの禁止に関する規定(18-20章)、祭司とその家族に限定された規定(21-22章)、イスラエルにおける祭日の規定(23章)、主にささげる油と菓子に関する規定(24:1-9)、主の名を汚す者への処罰(24:10-23)、安息日とヨベルの日についての規定(25章)。そして、これらの規定を守ることによって聖なる民として聖なる神に仕えて生きる祝福とそうでない歩みによってもたらされる呪いが記され(26章)、聖なる国民として歩むことが勧められています。最後に、主にささげたものを取り消す(「あがなう」とここでは言われている)場合の規定が記されています(27章)。
 聖なる主の宝である聖なる国民として生きるために必要な規定こそがレビ記です。主によって救われ、主のものとなった民は、それにふさわしい聖なる者として歩みが求められています。それは聖なる神の御名を汚さず、むしろ、全世界の主の聖なることが示され、その栄光が現されるためです(22:31-33)。それと共に、聖なる民として歩むことは隣人を自分のごとく愛することでもあります(19:33-34)。主のみ姿を映しつつ、隣人を愛して生きていくことこそ、主の栄光を輝かす聖なる者の歩みであることを覚え、主のみ前に出続けたいものです。