死を覚えて、今を生きる(伝道の書9:1-10)

 今まで見聞きし、語ってきた全ての現実を踏まえて、コヘレトはわたしたちに如何に生きるべきかを語りはじめています。コヘレトは、特に死の現実を踏まえた上で如何に生きるべきかをわたしたちに告げてくれています。

I. 死の特徴:全てのものの違いを奪い取る(9:1-3)
 コヘレトは如何に生きるべきかを告げる前に、まず死についての二つの特徴を挙げています。死の一つ目の特徴は「全てのものの違いを奪い取る」ことです。
 コヘレトは全てのことに心を用いて探求し、一つの結論に達しました。それは「正しい者と賢い者、および彼らのわざが神の手にあること」です(9:1)。口語訳では分かりにくいのですが、「愛することや憎むこと」さえも神の手にあるとコヘレトは述べています。つまり、人のなすことは何一つとして神から離れて行われることはありません。その一方で、人は自らの前にあるすべてのことについてよく理解してはいません。コヘレトが特にここで指摘しているのは、「知っているつもりで実は知らない」現実です。具体的には、「すべての人に臨むところはみな同様である」こと(9:2)、つまり「すべての人が死ぬ」ことを指しています(3:19参照)。このことに関して、コヘレトは次のように続けています。「正しい者にも正しくない者にも、善良な者にも悪い者にも、清い者にも汚れた者にも、犠牲をささげる者にも、犠牲をささげない者にも・・善良な人も罪人も・・誓いをなす者も、誓いをなすことをおそれる者も」同様に死が襲いかかります(9:2)。神の前に喜ばれるような生き方を行った人も、神をおそれず、傍若無人に生きてきた人にも死は臨みます。死はその人の人格や行動に現れているあらゆる違いを奪い取ります。ちょうど人と動物の境目が死の現実によってなくなってしまうように(3:18-21)、死という観点から見るならば、誰一人として違いはありません。
 全てのものの違いを奪い去っていく死の現実をコヘレトは「日の下に行われる全てのことのうちの悪事である」(9:3)と断罪しています。本来は何らかの違いがあっていいはずなのに、それが全くなくなってしまう現実に対するコヘレトの失望の言葉です。

II. 死の特徴:生きている者と死んだ者とに分ける(9:4-6)
 それでは、死はわたしたちに失望だけを与えるのでしょうか。いいえ。コヘレトは死のもう一つの特徴を9:4-6で続いて記しています。それは「死は人を生きている者と死んだ者とにわける」ということです。それでは、生きている者と死んだ者とはどのような点で違っているのでしょうか。
 コヘレトは「すべて生ける者に連なる者には望みがある」(9:4)と言っています。ここでいう「希望」とは「確信」という意味があります。そして、「生ける犬は死せるししにまさる」とも言っています。どれだけ素晴らしい存在(しし)でも死んでしまえば、忌み嫌われつつも生きている存在(犬)よりも劣っている、と断言しています。生きていることは死んでしまったことよりも優れているのです。なぜでしょうか。それは「生きている者は死ぬべきことを知っている」からです(9:5)。死んでしまった人はもはや何も知りませんが、生きている存在は自らがやがて死ぬことを知っている、つまり死ぬという知識の分だけ生きている人は死んだ人よりまさっています。
 「死ぬことを知っていることは大切である」というコヘレトの主張は奇妙なものかもしれません。しかし、「限界を覚えて生きる」ことの大切さを語ってきたコヘレトにとって(8:5-8参照)、人間存在の究極的な限界である「死」を覚えて生きることは大変貴重なことでした。たとえ死が全ての違いを奪い取ったとしても、生きている人と死んだ人との違いを奪い取ることができません。逆に言うならば、わたしたちは「自らがやがて死ぬ」という貴重な知識に則って、人生をどのように生きていくのかを考えなければなりません。

III. 死を覚えて、今を生きる(9:7-10)
 それでは、自らが死ぬことを覚えて生きるとはどのような歩みなのでしょうか。死についての議論に続いて、コヘレトは死を覚えて生きる歩みについてのアドバイスを四つ述べています。
 まず、喜びを持って飲み、食べることが勧められています(9:7)。今まで繰り返してきた勧めのまとめとして、ここでは明確な命令(「食べ・・飲むがよい」)として語られています。なぜこのように勧めるのでしょうか。それは「神はすでにあなたのわざをよみせられたから」です。つまり、喜び楽しむ機会が与えられていることそのものが、その人が神から喜ばれている証拠だとコヘレトは理解しています。神があなたを喜んで、プレゼントとして機会を与えて下さっているのだから、それを無駄にしてはいけない、と訴えているのです。背景には、この神の好意がいつ取り去られるかわからない現実があることは想像できるでしょう。
 次に、衣を常に白くし、頭に油を絶やさないことが命じられています(9:8)。どちらも祝宴と深い関わりをもつ行動です。当時の人々は祝宴に人々は白い衣を着、また頭に油を注いで喜びを表していました。これも、喜び楽しむ機会があるならば、それを逃さないように、との勧めの言葉です。とくに「常に」や「絶やすな」という言葉から、一時たりとも無駄にしてはいけない、という切迫感を感じることができます。
 三つ目の命令は「愛する妻と共に楽しく暮らす」ことを命じています(9:9)。一人っきりで孤独に過ごすのではありません。誰かと共に生きる生涯が勧められています。なぜならば、今、生きている間のこの時期は「空なる命の日」、いつ終わってもおかしくない短い地上での生涯だからです。死ぬことを知っているからこそ、生きているひとときを無駄にしてはならないのです。さらに、愛する妻と共に暮らすことは「世にあって受ける分、・・日の下で労する労苦によって得るもの」だからです。生きることは大変であり、日々は苦しい労働が続くでしょう。しかし、その中で神が与えて下さっている賜物がこの愛する妻と共に暮らす日々です。「遊んで暮らせ」と言っているのではありません。労苦の中に見いだす喜びを宝物のように大切にせよ、そしてそれを誰かと分かち合いながら生きよ、と訴えているのです。
 最後にコヘレトは「すべてあなたの手のなしうる事は、力を尽くしてなせ」(9:10)と命令しています。自分の力でできる何かが目の前にあるならば、それに取り組みなさい、機会を逃してはいけない、と訴えています。「また今度できるだろう」という発想はコヘレトにはありません。まさに「今この時」しかないのです。死んでしまうならば、そこには「わざも計略も知識も知恵もない」からです。死の現実を知っている生きている者は、今の時を用い、今を生きるように勧められています。まさに次の瞬間に死がわたしたちに襲いかかるかもしれないからです。
 これらの四つの命令は9:1-6で述べられている死の現実と密接に結びついています。いつ死ぬかわからない、しかし、必ず死ぬ事はわかっている。だからこそ、今神が与えて下さっている賜物−−喜び、祝宴、家族−−を無駄にするな、それを味わい楽しみなさい、とコヘレトは訴えています。わたしたちは「また機会があるだろう」と思って、あらゆることを後に延ばしてしまいがちです。しかし、死の現実をしっかりと心にとめたならば、神の賜物を無駄にしてはいけないことを感じるのではないでしょうか。今、この時、神の賜物を大切に用いさせていただきましょう。