相手を知っていて、相手は知らない

 ある方のBlogをRSSリーダーでいつも読んでいる。その方は、わたしが読んでいることを書いて文章を書いておられる。今日の出来事の日記を読んでも、わたしのこころの痛みについて、それとかかわりの深い出来事に関するその人の意見などが書かれてあった。それぞれがいろいろな気持ちをもって教会に来ている。そして、表面に出ない、深い深いなにかを背負っている。それを表面に出す人もいれば、それをいつまでも隠し続ける人もいる。ただ、隠し続けていたとしても、なにかの時に、それは表に現れてくる。ある出来事を通して、そのようなことを感じながら、今日の一日を振り返っていた。
 ある一件がひとまず片が付いた。しかし、それでよかったのか。苦労して、あれだけ、という気もする。そして、本質的に何も変わってはいないことを感じてしまう。外側だけを何とか取り繕った所で、どうなるのだろうか。牧師とは、そのようなことをする存在なのか。そうではないはずだ。もっと、人間のこころのコアに触れる部分にかかわっている働きのはずなのだが。