知恵の限界を知る知者(伝道の書7:23-8:8)

 コヘレトの知恵の探求は続きます。たとえそれが失敗に終わることがわかっていたとしても、コヘレトはわたしたちの代表として、本当にだめかどうか、確かめようとするのです。

I. だれが知恵ある者となることができるだろうか(7:23-24)
 最高の知恵と最大の富を獲得した王がいつまでも残る儲けを得る事ができるかどうか、コヘレト自身が試み、残念ながら失敗しました(1:12-2:28)。しかし、彼は一度の失敗だけであきらめるわけではありませんでした。彼はもう一度「本物の知者となりたい」と願い、再挑戦をはじめました(7:23)。もちろん、本物の知者となることは大変難しいことであり、はなはだ遠く、はなはだ深いものです。そして、「物事の理」(7:24)、つまり現在世の中で起こっているあらゆる出来事を見いだすことは不可能かもしれない、と予想しています。しかし、どれだけ困難であったとしても、彼は本物の知者となり、物事の理を見いだし、それを見極めたかったのです。単に知識を自分のものとしたかったからではありません。知識を自分のものとすることによって、世の中で起こっている様々な出来事を自分の思い通りに動かすことができるようになりたかったからです。ですから、「だれがこれを見いだすことができよう」(7:24)と疑問を投げかけることによって、コヘレトは再度知恵の探求をはじめました。

II. 愚かな者は多く、賢者はわずか(7:25-29)
 そこで前回同様(1:17)、コヘレトは知恵と道理、さらに悪の愚かなことと愚痴の狂気を知ろうと試みました(7:25)。つまり、知恵の素晴らしさと愚かな状態の悲惨を知ろうとしたのです。そこでコヘレトが見いだしたことは何だったのでしょうか。それは「その心がわなと網のような女、その手がかせのような女は死よりも苦い者であること」ことでした。これは単なる悪女のことを指しているのではありません。コヘレトは知恵のない、愚かな生き方が人となったような女性を意味しています。彼女は知恵ある生き方に対する敵でした。愚かな生き方が人になったような女性に捕まってしまう男性は死よりも苦い経験を送るからです。もちろん、だれもこのような女性に捕まりたくはないでしょう。しかし、現実には多くの若者が彼女の毒牙にかかっていったのです。その現実を知っていましたから、コヘレトは「神を喜ばす者は彼女からのがれる、しかし罪人は彼女に捕らえられる」(7:26)と語ったのです。つまり、愚かさを体現したような女性に捕まらないで過ごすことのできる若者は、みずからが神に喜ばれる者であること証明しているのです。現代の視点からこのことを考える時、世の中には数多くの愚かさを体現した男も女も存在します。そのような人々に捕らえられ、愚かさの罠に陥ることがないように、とコヘレトは警告を鳴らしたのです。
 その一方で、知恵を体現した男性や女性は世の中に存在するのでしょうか。愚かな男や愚かな女は数多くいます。しかし、コヘレトは、「わたしは千人のうちにひとりの男子を得たけれども、そのすべてのうちに、ひとりの女子をも得なかった」(7:28)と言っています。知恵を自らのものとした男は千人にひとり、知恵を体現した女性は千人探してもひとりもいない現実に気づいたのです。特別に女性を差別しているわけではありません。愚かな人は数多くいる一方で、知恵のある人はほとんどいません。
 知恵と愚かさを探求したコヘレトは、知恵を体現した知者をほとんど見つけることができませんでした。この現実を受けて、彼は「神は人を正しい者に造られたけれども、人は多くの計略を考え出したことである」(7:29)とまとめています。神は人を正しい者、知恵や道理を追い求めるように造られました。しかし、人はいつまでも残る儲けを求めるがゆえに、多く計略を追い求め、自らを曲げてしまいました。その結果、知恵を得ることはできない、儲けも獲得する事ができない、はては無駄な努力だけを繰り返すという悲劇的な現実に陥っているというのです。これはまさにわたしたちの現実ではないでしょうか。
 コヘレトは真剣に知恵を追い求めていました。わたしたちはどうでしょうか。知恵を追い求めてもそれを得られないかもしれません。しかし、だからといって、自らを愚かさと惨めさへと導く愚かな生き方に魅せられてはいないでしょうか。知恵を獲得できないことは残念です。しかし、愚かさに捕まってしまうことはそれ以上に悲惨なことです。

III. 知恵の限界を知っている者こそほんとうの知者(8:1-8)
 知者になろう、という意気込みをもって、コヘレトは一生懸命に知恵を追い求めました。しかし、彼は知者を見いだすことはできず、むしろ愚かな人々を見いだすばかりでした。知恵と知者の探求にコヘレトはまたもや失敗した、と言えるでしょう。しかし、彼はもう一度疑問を投げかけます。「だれが知者のようになり得よう、だれがことの意義を知り得よう、『人の知恵はその人の顔を輝かせ、またその粗暴な顔を変える』」(8:1)。コヘレトは完璧な知恵を持った知者を探すことはあきらめ、知恵の力、すなわち人の心を動かし、粗暴な者の機嫌を変えることができる力があることを知っている人の探求に方針を切り替えました。「完璧な知恵に満ちた人」ではなく、「知恵の力を知っている人」がいないか、彼は探し求めたのです。そして、ほかならぬ自分がこの分類に当てはまることに気がつき、「わたしこそそれだ」(8:2、ただし口語訳にはなし)と答えました。コヘレト自身、完璧な知恵を持ってはいませんが、知恵のもつ力を語ることならできたからです。
 それでは、コヘレトは知恵の持つ力がどのようなものであることを知っているのでしょうか。まず、王宮で、王の機嫌を取る力が知恵にはあることを彼は述べました。強力な権力を持っている王の機嫌を取るためにはどうしたらいいのでしょうか。それは「王の命を守れ」(8:2)という命令に凝縮されています。王は自分の好むことをするから、「あなたは何をするのか」と王には向かって言ってはいけません(8:3-4)。「命令を守る者は災いにあわない」からです(8:5)。
 さらに、知者は「時と裁き(口語訳では『方法』)をわきまえている」(8:6)と語り、時に関するいくつかの事実をコヘレトは告げています。まず、全ての営みには「時と裁き(口語訳では『方法』)」があります。言い換えれば、時を捕らえて上手くやっていくタイミングがある、ということです。しかし、現実には人々は多くの災いに遭ってしまいます。なぜ災いを避けることができないのでしょうか。それは将来なにがおこるのか知っている人がだれもいないからです(8:6-7)。その証拠に人は風をとどめることはできませんし、死の日を自分の思い通りにすることもできません。死と言う戦いからのがれることもできません。そして、悪には悪を行う人を救う力を持ってはいません(8:8)。どれだけ知恵があっても、将来を知ることができず、死を避けることができません。だから、知恵には力がありますが、同時に限界があるのです。
 コヘレトは完璧な知恵を追い求めていきました。世界に起こっている全てのことを自分の思い通りに動かすことはできないか、と探求を続けました。しかし、そのような完璧な知恵を人は獲得することができないことに彼は気がつきました。知恵には力があるが、やはり限界があることに気がついたのです。むしろ、王の命令に従うことが幸いへの近道であるように、絶対者である神の定められた世界にあわせて生きることこそ、現実的なしあわせへの近道です。だから、「自分の知恵には限界がある、そのことを認識して生きよう」とコヘレトはわたしたちに勧めています。わたしたちも自分の限界をしっかり知った上で、神の前を歩ませていただきたいものです。