知恵の限界と神をおそれること(伝道の書7:15-22)

 知恵や正義は成功や繁栄を保証してくれるでしょうか。この疑問に対して、世界に起こっていることを注意深く観察しているコヘレトはひとつの指針をわたしたちに与えてくれています。

I. 知恵と正義の限界
 コヘレトは彼の回りに起こっている様々な出来事を観察してきました。それは、全権者である神が、この世界をどのように治めておられるのかを見きわめるためでした。観察を通してコヘレトが気がついたことは数多くありましたが、その最たるものは善に対する報償と悪に対する懲罰が現実となっていなかったことでした。彼はこのことについてすでに言及しています。正しい裁きがなされるべき裁判所や王宮で不正がなされていること(3:16)、権力を持つ者が弱い者を虐げているが、誰一人としてこの弱い者を慰めようとはしないこと(4:1)、権力者の間でも力の上下関係があり、いつも自分より力ある者を恐れながら行動していること(5:8)。
 コヘレトは7:15において、よく似た現実を述べています。それは「義人がその義によって滅びること」、そして「悪人がその悪によって長生きすること」です。本来、正しい歩みをしている人は、その歩みのゆえに神から祝福を頂き、さらに長寿が与えられるはずです。しかし、それが現実とはならず、むしろ、正しい歩みのゆえに苦しい状況に陥ってしまっています。その一方で、悪しき歩みをしている人は、その歩みのゆえに罰を受けるはずでが、その悪ゆえに長寿の祝福にあずかっています。コヘレトが観察した所、この地上で勧善懲悪は現実とはなっていません。
 この現実を踏まえて、コヘレトは二つの忠告を与えています(7:16-17)。まず、「あなたは義に過ぎてはならない、また賢きに過ぎてはならない、あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか」です。「義に過ぎる・賢きに過ぎる」とは「義や知恵を追い求めてはいけない」という意味ではありません。「義や知恵があれば、人生は問題なく、いつも祝福と成功と繁栄に生きる事ができる」と誤解してはいけない、過度の信用を義や知恵においてはいけない、という意味です。義人が義のゆえに滅びる現実を目の当たりにしているのですから、「正しい歩み」や「知恵ある歩み」をしているだけで、全てが上手くいくわけではない、逆の可能性もあることをコヘレトは訴えています。
 それでは、愚かであればいいのでしょうか。コヘレトは次のように続けています。「悪に過ぎてはならない、また愚かであってはならない、あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか」。悪と愚かさが人を不幸から救うとは思っていません。それは確実に人を不幸にしていきます。だから、たとえ悪しき人がその悪のゆえに長寿を誇ったとしても、悪しき歩みに信頼してはいけない、と警告を投げかけています。
 知恵や正義は人を成功と繁栄に導くとは限らない、かといって、悪と愚かさは人を確実に不幸に導く。この現実を踏まえた時、どのように生きればいいのでしょうか。コヘレトは「一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい」(7:18新改訳)と言っています。これは適当に正しく、適当に悪く生きるように勧めているのではありません。いわゆる中庸を勧めているのではありませんし、現実をそのまま受け入れよとも言っていません。むしろ、知恵と正義にも限界がある、愚かさも悪も危険である。それぞれには限界や問題がある、それを十分に考慮に入れて生きることを勧めています。「知恵の持つ限界を知って生きよ」こそ、コヘレトのわたしたちへのメッセージです。
 「知恵の持つ限界を知って生きる」ことの大切さは7:19-22にも描かれています。
 すでに何度も述べているように、コヘレトは知恵の力を信じています。ですから、「知恵が知者を強くするのは、十人のつかさが町におるのにまさる」(7:19)と語ります。軍隊を持ち、それを自由に動かすことができるつかさが多く町にいたとしても、知者の知恵がそれよりも力を持つ、と断言しています。「ペンは剣よりも強し」ではなく、「知恵は剣よりも強し」です。しかし、あらゆる問題を解決することができる、完璧な知恵を持つ人は限られています。ですから、「善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない」(7:20)とも告白しています。この箇所では「善」だけが取り扱われていますが、今までの議論から知恵もここに含まれているのは明らかです。完璧な知恵や善は存在するかもしれませんが、どんな知者も不完全です。自分の胸に手を当てれば、人を呪ったこともあることに気づくのではないでしょうか(7:21-22)。知恵は力があるが、知者には限界がある。2章ですでに述べた同じ結論を、ここでコヘレトはもう一度語っています。

II. 神をおそれることの意味
 知恵や正義は素晴らしい、しかし、これらを持っていても、いつも成功と繁栄を獲得するかというとそういうわけではありません。また、知恵は力あるものですが、知者は完璧な存在ではありえません。世界の現実と人間の現実を観測した時、コヘレトは知恵の限界に直面しました。そして、それをわたしたちに訴えています。
 それではどのように生きるべきなのでしょうか。
 コヘレトは7:18において知恵と正義、愚かさと悪の限界を知る生き方について、「神を恐れる者はこの両方を会得している」(新改訳)と言っています。ここでいる「両方を会得する」とは、知恵の限界、正義の限界、悪と愚かさの限界を知った上で生きることを意味しています。そして、「神をおそれる者」、つまりわたしたち人間は絶対的な主権者である神の前に生きる無力な存在であることを認識している人は、知恵や正義の持つ限界を知って歩むと語っています。
 正義は大切なものです。そして、知恵を絶えずわたしたちは追い求めるべきです。しかし、絶対的な主権者である神の前に生きているわたしたちは、人間の獲得するいかなるものも、成功や繁栄を保証しないことを心に留めるべきです。あらゆるものを絶対化することによる成功や繁栄への様々な誘惑に惑わされることなく、自由に、神をおそれつつ歩む人生をコヘレトは私たちに勧めています。