欲望の悲劇(伝道の書5:8−6:9)

 欲望に駆り立てられ、さらに多くの富を求めてあくせく働いている人々がコヘレトのまわりには多くいたようです。いや、彼自身もそうであったのかもしれません。しかし、コヘレトは富を追い求める欲望がどのような悲劇を人にもたらすのかを、冷静に見つめています。そして、満足と喜びに生きる秘訣をわたしたちに示しています。

I. 富の悲劇(5:8−17; 6:3-9)
 コヘレトは富が生み出す様々な悲劇を今日の箇所で繰り返し描写してます。
 まず、富の追及は満足を生み出しません(5:10)。金銭を愛する者はいつまでも満足しません。金銭の飽くなき追及に時間を費やしていくのです。さらに、そのような富を持つ人のまわりに、そのおこぼれをもらおうとたかってくる人々が集まってきます(5:11)。その結果、多くの富を蓄える人は不眠に陥ります(5:12)。今まで蓄えてきた富を誰かに奪われないように、と心配になるからです。その一方で、富を蓄えることの余裕などない、いわゆる労働階級の人々は(「働く者」)は、ぜいたくに生きることはできませんが、心地よい眠りを経験することはできるのです。満足なく、富を奪う人々にたかられ、平安のない生活は、しあわせでしょうか。
 また、富を蓄えた人も、それをいつまでも自分の手元に置き続けることができるわけではありません。不幸な出来事(株の暴落、事業の失敗、詐欺など)によって失われ、結果として蓄えた富が持ち主を不幸にしている現実もあります(5:13−14)。子どもが生まれたら、この子どもに残そう、と思っていた富が、一瞬のうちに失われてしまいました。ところが、まさに富を失った時に、子どもが生まれてくるのです。子どもが裸で、何も持たず母の胎から生まれ出てきたように、多くの富を持っていた人も、全て奪われて裸同然になってしまいました(5:15)。彼の労苦は全く無駄であったといえるでしょう。風を追うように、決して捉えることのできないような富を追いかけていたのですから。彼には全く儲けはありません(5:16)。生まれてきた子ども以外にこの元金持ちに残ったものは「暗闇と悲しみと多くの悩みと病と憤り」だけです(5:17)。確かに命はありますが、このような状況に陥ったならば、死んだのと同然です。富に頼る人生は、最終的にはその人を不幸にしていきます。
 富だけではありません。多くの子孫と長寿という祝福をもっていても、その心が満足することなく一生を終えたならば、それはむなしい人生です(6:3)。更にこの人は「葬られることがない」ともあります。墓の場所を確保せずに死んでいったのか、墓に象徴される死後の休息がないような状況に陥ったのか、わかりません。しかし、祝福を受けたにもかかわらず、満足と安息なく死んでいった人はしあわせではない、とコヘレトは断言しています。死同然の暗闇から暗闇に去って行く流産の子どもの方が彼よりも勝っているとさえ言うのです(6:4)。なぜなら、満足と安息なく死んでいったからです(6:5)。
 これらの状況を覚えて、コヘレトは「人の労苦は皆、その口のためである。しかし、その欲望(口語訳では「食欲」)は、満たされない」(6:7)と言っています。ブラックホールのように、決して満ちあふれることのない欲望に駆り立てられて歩んでいる限り、人は満足することはありません。欲望に駆り立てられて生きることから救われるためには、「目に見ること」、すなわち満足することを知らなければなりません。
 このようにして、コヘレトは富の追及の生み出す様々な悲劇を挙げています。満足することのない欲望、失うことを恐れるゆえの不安、今まで頼っていた富の突然の消失、満足と安心のない人生、そして欲望にだけ駆り立てられる満足ない人生。わたしたちが満足を覚えない限り、富の追及はわたしたちを不幸にしていきます。決して満たされることのない欲望を満たそうと労苦することは、わたしたちを苦しめるだけなのです。

II. 神の賜物によって生きる(5:18−6:2)
 それではわたしたちはどのように生きるべきでしょうか。コヘレトはわたしたちが神の賜物に生きることを勧めています。いったいなにが神の賜物なのでしょうか。
 まず、生きていることそのものが神の賜物です。「神から賜った短い一生の間」(5:18)とあるように、わたしたちの生涯は長くはありません。しかし、それはまさに神から特別に頂くプレゼントです。自分で「生きている」のではなく、神の賜物によって「生かされている」のです。まず、この事を認識することなしにしあわせな人生はありません。
 もう一つは、苦しい労働の中に見いだされ、その合間に与えられる喜びや楽しみを精いっぱい味わうことです(5:18)。わたしたちが苦労して毎日を歩む現実は変わりません。しかし、労働そのものに楽しみや喜びを見いだすこともあるでしょう。また、労働の合間の飲食の一時に安息を見いだすこともあるでしょう。これらの時は神が与えられた分、神の賜物です(5:19)。わたしたちが喜び、楽しむことができるように神が許されているからこそ、わたしたちは楽しむことができるのです。神からのこのプレゼントを精いっぱい喜ぶ時、わたしたちはしあわせに生きる事ができるのです。
 ある人は「よろこび、楽しむこと」はわたしたち自身が獲得したものであると考えるかもしれません。しかし、コヘレトは6:1−2において、富と財産と誉れとを持ちながら、神からそれらを楽しむ機会が与えられなかった人の悲劇を挙げています。自分で楽しむことはなく、他の人が楽しんでしまうことがあるのです。
 わたしたちが自分で何かを獲得して、自らの欲望を満たそう、と切望しても、それは決して満たされることはありません。ほんとうに満足し、しあわせに、安息のうちに生きる秘訣は、神の賜物に目を注ぐことです。神に生かされ、神に喜びの機会を与えていただいている、その事実に気がついた時、わたしたちは生かされているひとときひとときが輝くことに気がつくのです。恋愛小説家 [DVD]