人生の教科書 よのなかのルール (ちくま文庫)

 かなりの斜め読み。へ〜と思えることもあるが、どうかな、と思える所も。特に宮台氏の議論には考えさせられる所と共に、批判も多く有り。たとえば、

意味とは<物語>、強度とは<体感>に相当します。なぜなら、<物語>は過去から未来につながる時間の展開が重要ですが、<体感>は「今ここ」が重要だからです。(p.494)

実際、人類は長らく「意味」(物語)ではなく「強度」(体感)を生きてきました。・・物の豊かさにあふれる近代社会は、人々が「意味」を求めて生きることによってでき上がりました。別の言い方をすれば、近代社会は、人々に「意味」を追求させることで、社会が必要とする振る舞いを、生み出して来ました。・・勤勉さには意味がある。成功することには意味がある。国や会社のために生きることには意味がある・・・。若い人たちが「いい学校・いい会社・いい人生」という物語に動機づけられるのも、そういうことなのです。・・でも、近代社会をつくりあげるとき(近代過渡期)に必要だったさまざまな「頑張り」は、いったん近代社会が出来上がると(近代成熟期)いらなくなるばかりか、場合によっては有害になります。・・成熟した社会では、でこも例外なしに「意味から強度へ」「物語から体感へ」という怒濤のような流れに飲み込まれている、ということです。(pp.495-496)

と彼は書いている。
 宮台氏の批判は当たってはいる。確かに現代は「いい学校・いい会社・いい人生」という物語が崩壊した時代である。だからこそ、若者たちは戸惑っている。そして、女の子には元気があり、男の子には元気がない。しかし、「ある特定の物語」が崩壊したからといって、「物語」によって生きることすべてが無意味になった、という議論は間違いである。事実、宮台氏は別の物語、「今楽しければそれでしあわせだ」が力を発揮している時代であるといっているに等しい。今の楽しさに意味がある、といっている。
 キリスト教からの批判、それはいわゆる「近代過渡期」に普遍的であると思われていた物語自体が間違っていた、というものだ。そして、「今楽しければいい」という物語も、結局は間違っている。キリストの福音に則った全く別の物語が必要である。「強度を持つ意味」、「体感を持つ物語」があるはず。宮台氏の近代社会に対する洞察は鋭いと思うが、彼の提案は薄っぺらい。ただの現状追認に過ぎない。