不公平と競争心に満ちる社会(伝道の書3:16-4:16)

 コヘレト(伝道者)は、注意深く彼の住む社会を観察しています。コヘレトの時代には金銭による経済活動が活発になったため、一獲千金の夢も実現可能となりました。そのため、多くの人が富の獲得を追い求め続けました。その一方で、富の獲得の競争において失敗するとひどい仕打ちを受け、果てには経済格差が広がっていく社会でもありました。そのような社会を注意深く観察しているコヘレトは、わたしたちが陥りやすい、いくつかの罠をここで語っています。

I. 神の公平?(3:16-22)
 コヘレトのまわりの社会は不正に満ちていました。本来公正である裁きと統治の場に不正が溢れ、正しい裁きが行われていない現のです(3:16)。その一方で、神は「正しい者と悪い者とをさばかれる」確信をコヘレトはもっていました。時が来れば、神がその裁きをなされる、という信仰に基づく確信でした(3:17)。しかし、ここに一つの問題が横たわっていました。「神の公正な裁き」とは一体どのようなものなのでしょうか。わたしたちは「勧善懲悪」という姿を期待します。神が水戸黄門のように裁きをなさってくれれば、と願います。しかし、3:18-22において、コヘレトは驚くような神の裁きの姿を提示しています。
 神はどのような裁きをなされるのでしょうか。その姿を示唆するために、コヘレトはまず神がどのように人間と獣とを取り扱うかを述べています。
 「人類は万物の霊長である」とわたしたちは信じています。人間は他の動物達とは異なる、素晴らしい能力を持っている、という確信を抱いて生きています。しかし、ほんとうにそうでしょうか。コヘレトは「人は獣にまさるところがない」(3:19)と断言します。このことばは驚きでしょう。しかし、これは真実です。なぜなら、人も獣も同じ運命を共有するからです。つまり、人も死ぬし、獣も死にます(3:19)。人も獣もちりから出て、ちりに帰ります(3:20)。「人のうちに注がれたいのちの霊は上、すなわち神の所に上っていき、獣に注がれたいのちの霊は下、すなわち黄泉に下っていく」と考える人もいます。しかし、だれもその事を保証してくれるでしょうか。だれも保証してはくれません(3:21)。このように、「死の現実」という点から人と獣とを比較した場合、人は他の動物と異なる所はひとつもないのです。人であるからと言って、何らかの優越点を見いだすことはできません。
 同じことが正しい人と悪い者の間にも存在します。「死の現実」という点から見るならば、どちらも同じように死んでいきます。死ぬ時は人それぞれ違うでしょう。しかし、「死を迎える」点は同じです。これが正しい者と悪い者への神の裁きであるとコヘレトは訴えています。「死がどのような人にも公平に訪れることに神の公平な裁きがあらわされている」という驚くべき結論をコヘレトはわたしたちに提示しています。

II. 不公平と嫉妬に溢れる社会(4:1-6)
 死は公平にすべての人に訪れます。しかし、わたしたちのまわりには不公平が溢れています。そこで、コヘレトは彼のまわりに虐げる者と虐げられる者がいることを述べています。つまり、権力を持つ者たちが持たない者たちを残虐に扱っているのです。そして、誰一人として虐げられた人々を慰めようとはしません(4:1)。この不公平の現実を見る時、「生きていることは素晴らしいことではない」とコヘレトは嘆きます(4:2)。虐げられながら生きることよりは死んだほうがマシだ、とつぶやくのです。そして、このような不公平と虐待に満ちた社会に生まれ、この苦しみを見るのならば、むしろ生まれてこないほうがマシだ、とため息をつくのです(4:3)。
 それでは、人々を虐げる権力を持つ人たちはしあわせなのでしょうか。いいえ。彼らも常に苦しみながら、何らかの儲けを獲得しようと汗をかいて働いています。純粋に労働が楽しくて働いている訳ではありません。彼らの動機は「ねたみ」です(4:4)。他の人よりもより多く儲けようとの競争心に追い立てられて、あくせくと働くのです。休息もなく、楽しみもない毎日です。両手にものを一杯に満たすことはできるでしょう。しかし、神の賜物である喜び、楽しみの時を自分の物とすることはできません。はたして、このような人生はしあわせなものでしょうか。コヘレトは「片手に物を満たして平穏であるのは、両手に物を満たして労苦し、風を捕らえるにまさる」(4:6)と断定しています。嫉妬心と競争心に振り回され、平穏に過ごすことができず、楽しみなく生きるならば、決してしあわせではありません。
 「勝ち組」と「負け組」に人々が大きく分けられ、弱い者たちがさらに痛めつけられている現代日本はコヘレトの嘆くこの社会となんら違いはありません。不公平と競争心と嫉妬に溢れ、平穏な日々を経験することなく過ぎていくわたしたちの姿を見た時、コヘレトは同じように嘆くのではないでしょうか。

III. 孤独と共同体(4:7-12)
 「勝ち組」をめざし、競争心に燃え、時間を惜しんで労苦する人々の中にはさらに悲惨な生涯を送る人たちがいます。その例が4:7-8にあげられています。彼には仲間も、子どもも、兄弟もいません。孤独な存在です。そうであるにも関わらず(いや、そうであるからこそ)、蓄えた富に飽くことなく、欲望に追い立てられ、さらに多くの富を得ようと心血を注いで労苦しています。彼の自分に「わたしはだれのために労するのか、どうして自分を楽しませないのか」(4:8)と問いかけるかもしれません。その問いに対する彼の答えは自明です。「わたしはだれのために労するのでもない」。彼の労苦は孤独な人の、自分のためだけの労苦です。すでにコヘレトが語っていたように、どれだけ彼が富を蓄えたとしても、彼の死後、それはだれか全く関わりのない人の所に行ってしまうでしょう。しかし、悲劇はそれだけではありません。彼はみずからが蓄えた富に満足することはできません。むしろ、欲望の導くがままに、「さらに多くの富を」と、彼は安息さえもなげうって働き続けるのです。「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という十戒の戒めも、彼にはなんの意味もありません。決して満たされない欲望をみたそうと、終わることのない労苦を繰り返すという落とし穴に彼ははまってしまったのです。
 公平な裁きは死だけであり、人々は競争心と嫉妬、さらに孤独と尽きぬ欲望にだけ駆り立てられて孤独な人の多い社会だけを見ていると、しあわせは見いだせないのではないか、と心配になるでしょう。しかし、コヘレトはわたしたちに救いを与えるように、ひとつのしあわせの姿を最後に述べています。それは「共に歩む人がいること」です。「ふたりはひとりにまさる」(4:9)から、そこに希望があります。二人で働けば、その労苦によい報いがあるでしょう。しかし、ひとりの労苦は報いがありません(4:9)。二人なら、どちらかが倒れても起こしてもらえるでしょう。しかし、ひとりだと倒れた時、だれが起こしてくれるのでしょうか(4:10)。二人でおれば互いに暖めあい、暖かく過ごすことができますが、ひとりだといつも寒さに凍えます(4:11)。敵とも二人なら立ち向かえますが、ひとりならかならず打ち負かされてしまうでしょう(4:12)。様々な問題点ばかり目に付く社会の中にあったとしても、わたしたちが誰かと共に進んでいくなら、共同体として歩み続けるなら、人は強く、しあわせに進むことができます。これこそコヘレトがわたしたちに告げたい良い知らせではないでしょうか。