リズムの揺らぐ世界(伝道の書3:1-15)

 「いつまでも残る儲け」を求めてコヘレトは王として、最高の知者として、最高の富豪として労苦しました。しかし、いつまでも残る儲けを得ることもできないこと、さらに何一つ彼の思うようにはならないことに彼は気がつきました。ただ、時と共に過ぎ去っていく労苦の中で見いだす喜びと楽しみに、彼は良いもの、つまりしあわせを見いだしたのです。
 そのような探求を終えたコヘレトは1:4-11に続いて、3:1-8においてわたしたちが住む世界の特徴を詩で示しています。はたして、1:4-11で示されていた「同じことが忙しく繰り返されるのみで、なんの変化もない世界」には他にどのような特徴があるのでしょうか。

I. リズムのある世界(3:1-8)
 わたしたちの住んでいる世界に起こるあらゆる出来事はある一定のリズムを持っています。すでに1:4-11において、太陽が昇り、沈むリズム、風が南北に向きを変えるリズム、世代が交代するリズムが示唆されていますが、3:1-8ではそれがより具体的に表現されています。
 3:1を除いて、3:2-8は「〜に時があり」という表現が28回繰り返されています。原文により忠実に訳すと、「〜の時、そして〜の時」と二つずつの項目が対になって、この対が14回繰り返されています。それではどのような出来事が対として描かれているのでしょうか。詩の冒頭に「生む時、そして死ぬ時」(3:2)とあるように、この詩では人の誕生から死に至る、人生に起こるすべての出来事に現れているリズムが描写されています。具体的には次にようなものがあります。生と死(「生む時、そして死ぬ時」〔3:2〕、「殺す時、そして癒す時」〔3:3〕)、農業(「植える時、そして植えたものを引き抜く時」〔3:2〕、「石を投げ捨てる時、そして石を集める時」〔3:5〕)、建物(「崩す時、そして建てる時」〔3:3〕、「石を投げ捨てる時、そして石を集める時」〔3:5〕)、宴会と葬式(「泣く時、そして笑う時、嘆く時、そして踊る時」〔3:4〕)、親密な男女関係(「抱擁する時、そして抱擁するのをやめる時」〔3:5〕、「愛する時、そして憎む時」〔3:8〕)、戦争(「戦いの時、そして平和の時」〔3:8〕)、牧羊(「捜す時、そして失う時」〔3:6〕)、裁縫(「引き裂く時、そして縫い合わせる時」〔3:7〕)、語り(「黙る時、そして語る時」〔3:7〕)。わたしたちの生涯の様々な側面が、様々な分野(農業、建築、家事、牧畜、戦争)を網羅しつつ、この詩には描かれています。そして、人生のすべての側面に起こるあらゆる出来事にリズムがあることをこの詩は語っています。3:1に「天が下の『すべての事』には季節があり、『すべてのわざ』には時がある」とあることが示唆している通りです。
 人を取り囲むすべてのことにリズムがあります。言い換えるならば、あらゆる行動には、それを行うにふさわしい時、タイミングが存在するはずです。たとえば、沈黙すべき時があれば、語るべき時があります(3:7〕。ほんとうに知恵ある者は、ふさわしい時を見いだし、そのリズムに合わせて生活するでしょう。そして、そこに繁栄としあわせを見いだすに違いありません。

II. リズムが揺らぐ世界(3:1-8)
 ところが、わたしたちの住んでいる世界は厄介なところです。あらゆる出来事にリズムがあり、それを行うのにふさわしい時がある一方で、この「ふさわしい時」を見いだすことは大変難しいことです。時を逃した結果、大失敗を起こすことがあります。なぜリズムのある世界のリズムに合わせて生きる事ができないのでしょうか。それは人生のあらゆる出来事のリズムはわたしたちが期待するほど規則正しいものではなく、多くの場合、リズムは揺らぐからです。
 リズムの揺らぎは3:2-8の詩の形式に示唆されています。あたかも規則正しい詩のように見えますが、所々に不規則な部分があります。たとえば、「植える時、そして植えたものを引き抜く時」(3:2)、「石を投げる時、そして石を集める時」、「抱擁する時、そして抱擁するのをやめる時」(3:5)では他の対にあらわあれている規則が完全には守られていません。さらに、一番最後の対は「〜する時、そして〜する時」ではなく、「戦争の時、そして平和の時」(3:8)と「〜する」という動詞ではなく、「戦争・平和」という名詞が並べられています。さらに対に並べられているものも、決していつもきっちりと対称的に並べられてはいません。規則的な詩ではありますが、そこここに不規則な動きが秘められているのです。
 人生のリズムを表す詩は規則に完全に従っている訳ではありません。その形式は微妙に揺らいでいます。形式のこの微妙な揺らぎは、わたしたちの住む世界でおこるあらゆる出来事のリズムが微妙に揺らぐことを示唆しています。そして、リズムの揺らぎのため、人はある行動を起こすのに最適な時を見いだすことはできません。むしろ、時を逃してしまい、失敗してしまうのです。たとえば、ほんとうは語るべき時であったにもかからわず、その時を逃して沈黙を守ってしまうこともありえますし、逆に沈黙すべき時に語ってしまうこともあるでしょう(3:7)。人間はリズムが揺らぐこの世界で、リズムに合わせて上手に踊ることはできません。いつもどこかで躓いているのです。

III. わたしたちの生きている世界(3:9-15)
 コヘレトは「同じことが忙しく繰り返されるのみで、なんの変化もない世界」(1:4-11)を示すと同時に、「リズムが揺らぐ世界」(3:1-8)を示しています。そして、そのような世界で労苦しているわたしたちに「いつまでも残る儲けはほんとうにあるのか」と、1:3同様に質問を投げかけています(3:9)。
 この質問に対して、コヘレトはわたしたちの生きている世界のもつ三つの特徴を述べています。まず、この世界は将来が予測できない世界です。世界に起こるあらゆる出来事の持つ揺らぐリズムに合わせて、時にかなった美しいわざを神はいつもなされます。神は将来なにがおこるかを完全に把握しておられます。しかし、人は神のなさる美しいわざを完全に見きわめることができません。将来を完全に予測することはできません。その結果、人は最適なタイミングをのがしてしまいます(3:10-11)。神が完全にこの世界を把握しきっておられるのですが、人は何一つ正確に予測することはできません。こころを「永遠」ならぬ「暗闇」が覆っているために、いつも失敗ばかりしているのです。
 次に、この世界は神が喜びと楽しみのプレゼントを与えて下さる世界です。神は苦しみ働く人に、喜びと楽しみのひとときをプレゼントとして与えられます(3:12-13)。それはわたしたちが願った時に、願ったかたちで与えられるようなものではありません。思いがけない時に、思いがけないかたちで与えられる、神の一方的な賜物です。そして、人のしあわせは、このようなささやかな祝宴のひとときの中に見いだされるのです。
 最後に、この世界において人は神の前で全く無力です。1:4-11ですでに示されているように、神は世界をただ同じことが繰り返されるように造られました。今起こっていることはすでに起こったことであえり、やがて起こることはもうすでに起こったことです。このことに不満を感じていたとしても、人にはそれを変えることはできず、ただ全権者である神を恐れるだけです(3:14-15)。
 この世界は、決してわたしたちの思うように動いてはいません。むしろ、わたしたちは全権者である神の前にひれ伏して生きなければならないでしょう。しかし、この神は決してわたしたちを惨めにしようとは思っておられません。むしろ、神が与えて下さる賜物を喜びつつ、自分たちの限界を知って歩むことこそ、神がわたしたちに求めておられる、知恵ある生き方ではないでしょうか。