王の失敗(伝道の書2:12-26)

 いつまでも残る儲けが存在するか否かを確かめるため、コヘレトは王として、最高の知者として、そして最大の富を獲得した者として探求を続けました。しかし、2:11で「日の下に儲けはない」と儲けを獲得することに失敗したと告白しています。なぜ、権力者、知者、富豪としてずば抜けているコヘレトさえ、いつまでも残る儲けを得ることができなかったのでしょうか。

I. 王:同じことを繰り返すに過ぎない(2:12)
 あらゆる権力を持ち、自分の願うことは何でも実行に移すことのできる王であるだけでは、永遠に続く儲けを手に入れることはできません。なぜでしょうか。コヘレトは「王はただ前任者達の行動を繰り返すだけだから」だと述べています。
 ひとりの王が位から去れば、次の王が立ちます。そして、結果として「王の後に来る人」、つまり王位の継承者はかならず存在します。継承者が先代より何か素晴らしい事をするのではないか、と人々は期待するかもしれませんが、現実には継承者はただ先代が行ったことを繰り返すに過ぎません。つまり継承者は「すでに彼(前任者)のなした事」(2:12)を実行するだけで、新しいことはなにも行いません。コヘレトもそうでした。同じことを繰り返すだけですから、なんの自慢もできません。他の王より優れた所はなにもありません。当然、いつまでも残る儲けなど「王であること」だけでは生み出されはしないのです。人は同じ事を繰り返すから、永遠に続く儲けを生み出す事はできません。

II. 知者:死んでしまえば愚か者と同じ(2:12-17)
 それでは、最高の知者となる事によって永遠に続く儲けを生み出す事ができるでしょうか。残念ながら、コヘレトの答えは「いいえ」です。なぜならば、知者も死んでしまえば愚か者と同じだからです。
 コヘレトは「知恵と狂気と愚痴(おろかさ)」について考察しています(2:12)。コヘレトは「光が暗きにまさるように、知恵が愚痴(愚かさ)にまさる」(2:13)と断言しています。ここで「まさる」というのは、「儲けがある」という意味です。つまり、知恵には愚かさに勝る儲けがあるのです。なぜならば、「知者の目は、その頭にあ」るため、光がそこに差し、どのような道であっても明かりを灯しながら、躓く事なくす進めます。その一方で、「愚者は暗闇を歩」むために、かならずどこかで躓くからです(2;14)。それでは、最高の知恵を持つコヘレトは永遠に残る儲けを獲得する事ができるのでしょうか。残念ながら、できません。「同一の運命が彼らのすべて(つまり、知者と愚者)に臨む」(2:14)からです。ここで言われている、知者も愚者どちらも経験する同一の運命とは何でしょうか。それは「知者が愚者と同じように死ぬ」という運命です。そして、死んだものは必然的に「きたるべき日にはみな忘れられてしまう」のです(2:16)。忘れられてしまえば、知者であっても愚者であってもなんの違いもありません。
 知恵そのものは素晴らしいものです。そして、儲けを生み出す可能性を秘めています。しかし、知恵を獲得した人、つまり知者には限界があります。この限界とは人に定められた「死」という運命です。どれだけ知恵を蓄えたとしても、その人は愚かな人同様に死にます。そして、結果として人々から忘れられてしまうのです。ですから、知恵によって一時的な儲けを知者は獲得する事ができるますが、いつまでも残る儲け自分のものとすることはできないのです。

III. 富豪:死んでしまえば富はだれのものになるのか(2:18-23)
 それでは、コヘレトが知恵を用いて労苦し、その結果蓄えた富はどうでしょうか。いつまでも残る儲けとなりうるのでしょうか。残念ならが、莫大な富さえも「永遠に残り続ける儲け」ではありえません。
 コヘレトは自分のために莫大な富を獲得しました。これらの富は彼の知恵と汗の結晶と言えるでしょう。しかし、皮肉な事に彼はそれを永遠に自分の物とする事はできません。いつかは彼の後継者に残さなければならないのです(2:18)。この富の警鐘について、別の問題がコヘレトにさらに襲いかかります。コヘレトは、財産を引き継ぐ後継者を自分で決める事さえもできません。汗水流して、知恵を使って獲得した富ではありますが、それを知者にゆずるか、愚者にゆずるか、コヘレトには決定する事ができないのです(2:19)。こんな理不尽な事があるでしょうか。コヘレトの労苦の実である富であったとしても、彼はそれを最後までコントロールする事はできないのです。その一方で、コヘレトの労苦の実であるこの富を継承する者は、なんの苦労もする事なく、自分の所有物とする事ができます。それでは、コヘレトになにが最後に残るのでしょうか。それは憂いと苦しみと眠れない夜です(2:23)。あまりにも悲劇的ではありませんか。
 なぜ、莫大な富をコヘレトは彼の後継者に残さなければいけないのでしょうか。それは人がかならず死ぬからです。どれほどの大富豪であっても、逆に名も覚えられぬ貧しい者であっても、死は等しく訪れます。そして、死のゆえに、人は自分の富をコントロールする事ができず、いつまでも残る儲けを得る事はできないのです。

IV. 最後に残ったもの:喜び(2:24-26)
 王と言う権力者、最高の知者、最高の富豪であったコヘレトさえも、いつまでも残る儲けを獲得する事はできません。彼の「いつまでも残る儲けの探求」は明らかに失敗におわりました。ですから、当然、すべての人がそのような儲けを自分のものとすることはできません。人はただ同じ事を繰り返すばかりだから、そして人は死ぬべき運命にあるからです。
 人生に儲けはありません。だから、人生はなんら得る事のない、むなしいものなのでしょうか。儲けを得ることがないのだから、生きる意義はないのでしょうか。いいえ。コヘレトは儲けを得る事のできない人生という壁にぶつかりながらも、ある「良い事」に気がつきました。それは「食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませる」(2:24)ことです。労働によって生み出されたものではなく、苦しい労働の日々の合間に見いだされる喜び、楽しみ、そして祝宴のひとときこそ、コヘレトが、そしてあらゆる人が享受できる唯一の「よいこと」です。大変な労苦の間でも、自らの心の喜ぶものを拒まずにいたコヘレトだからこそ(2:10)気がつく事ができた「よいこと」でした。さらに、人生における喜び、楽しみ、祝宴のひとときは人間が自分で獲得するものではありません。それは「神の手から出ること」(2:24)です。神のみこころにかなう人々に神が一方的に与えて下さる賜物です。もちろん、喜びは永遠に残るものではありません。時が過ぎれば消え去ってしまいます。暑い日中に働いている時にふと顔をなでる涼しい風のようなものです。「永遠に残る儲け」ではありません。すぐに消え去っていきます。しかし、悩み苦しみながらも働き続けるわたしたちに与えられた神からの賜物です。無駄にしてはいけない、大切な瞬間なのです。
 わたしたちはいつまでも残る儲けを得ようと日夜苦しんでいます。そして、それゆえに神からの賜物である喜び、楽しみ、そして祝宴のひとときを忘れてしまいがちです。しかし、現実的には、永遠に残る儲けを自分の物とすることはできません。むしろ、移り行く時の中で、神が与えて下さっているささやかな賜物を喜ぶことこそ、わたしたちがほんとうに心にとめるべきことです。