王の挑戦(伝道の書1:12-2:11)

 コヘレト(伝道者)は「地上で生きている間に一生懸命働くことによって得ることのできる儲けは何か」という質問を投げかけています。ここで言う「儲け」とは「いつまでも続く儲け」であって、すぐに消えてしまうようなものではありません。コヘレトが投げかけたこの質問に答える方法はいくつかありますが、コヘレトは自らを読者のために見本としてさし出しています。実はコヘレトはだれよりも多くの儲けを得る手段をもっており、さらにだれよりも多く労苦した自信があったからです。それではコヘレトはどのようにして自らの質問に答えようとしたのでしょうか。

I. 王であるコヘレト(1:12-15)
 コヘレトはまず「自らは王であった」と告白しています(1:12)。当時の王は国においてあらゆる権力を持ち、大きな軍隊を率い、最大の富を持つ絶対権力者でした。ですから、コヘレトは数多くの儲けを得る手段を持ち、実際に多くの富を獲得することができました。彼が得ることのできる富は一般の民衆には想像できなかったでしょう。
 コヘレトは、王としての権力をもって、「天が下に行われるすべてのことを尋ね、また調べ」ました(1:13)。そして、「日の下で人が行うすべてのわざを見」ました(1:14)。これは簡単なことではありません。この世界で行われている「すべてのこと」を観察し、調べるのです。普通の人にはできないことでしょう。しかし、王としての権力をもってならば、不可能なことではありませんでした。そして、観察と調査にあたって、コヘレトは自らの「心をつくし、知恵を用いて」取り組んでいます(1:13)。彼は単に一生懸命、「心をつくして」調べただけではありません。彼のもっている溢れるばかりの知恵を用いて、すべての出来事を観察し、熟考しました。
 この王であるコヘレトの作業は簡単なことでしょうか。王としての彼の権力を持ってすればたやすい仕事であったのでしょうか。いいえ。コヘレトは「これは神が、人の子らに与えて、骨折らせる苦しい仕事である」(1:13)とぼやいています。コヘレトをもってしても、これは苦しい仕事でした。休むことのない、骨の折れる作業でした。しかし、いつまでも続く儲けがあるかどうかを確かめるため、コヘレトはこのような労苦に取り組んだのです。

II. 知者であるコヘレト(1:16-18)
 コヘレトは自らがすぐれた王であって、王としての権力をもってすべてのことについての探索を行うと宣言しました。それに加えて、彼は「わたしは、わたしより先にエルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得た」(1:16)と告白しています。そして、事実、彼の心は「知恵と知識を多く得た」のです(1:16)。彼はエルサレムにおける最高の知者となったことを誇りました。実は王と知恵とは切っても切れない間柄です。それは知恵がある王ほど王国を正しく治めることができると考えられていたからです。ですから、ソロモン王は夢の中で神に何でも願い求めるように言われた時、国を治める知恵を求めました(列王記上3:9)。知恵の効能はそれだけではありません。知恵ある者は多くの富を獲得することもできました(たとえばエジプトを治めたヨセフの知恵[創世記41:37以下])。まさにコヘレトは国を正しく治め、かつ多くの富を獲得できる知恵に溢れた王でした。
 コヘレトは知恵を究めただけではありませんでした。彼は「心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとした」(1:17)とあるように、知恵も愚かさのすべてを知ろうと試みました。そして、知恵とは何か、さらに知恵のない愚かさとは何か、一生懸命求め続けたのです。彼は知恵に関する最高権威者となったのです。

III. 富を蓄積するコヘレト(2:1-11)
 王としての権威を持ち、歴代最高の知恵を持ったコヘレトが取り組んだのは富を蓄積することでした。しかし、単に富を蓄えることに一生懸命時間を費やしたのではありません。彼は自分の心に向かって、「快楽をもってお前を試みよう。おまえは愉快に過ごすがよい」(2:1)と言っています。富を蓄えることだけに心の全てを用いるのではなく、喜び楽しむ時を忘れないように、とコヘレトは自分の心に命じています。彼は喜びを感じながら、一生懸命労苦して富を蓄えたのです。また、「わたしは酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた」(2:3)とあるように、人生の喜び楽しみを象徴するぶどう酒で自らを励ましながら富を蓄える労苦に携わっていきました。そして、そのことを通して、「人の子が天が下でその短い一生の間、どんな子とをしたら良いかを見きわめ」(2:3)ようと努力していったのです。ですから、コヘレトは決して禁欲的に労働した王ではありません。苦しい労働の中でも、喜びと楽しみを味わいつつ、何が「儲け」か、なにが「良いこと」か、探し続けました。
 コヘレトは具体的に何をしたのでしょうか。彼は「大きな事業をした」(2:4)と言っています。コヘレトは単に知恵において偉大な人物ではありませんでした。彼は王として行うあらゆるプロジェクトにおいて偉大なものとなるように努めたのです。そして、自分のために邸宅と農地と園庭を造り、そのために潅漑事業も行いました(2:4-6)。さらに、奴隷や家畜を買い取り(2:7)、金銀宝石、歌い手達、そばめまでも自分の物として蓄えました(2:8)。その結果、コヘレトは自分より「先にエルサレムにいたすべての者よりも大いなる者となった」(2:9)と自慢しています。そして、目的通り最高の富を獲得し、愚かになることなく最高の賢者であり続けました(2:9)。あらゆる喜び楽しみを受け入れ、欲するものは全てを自分の物としました(2:10)。もちろん、これらの富を獲得するために、コヘレトは大変働きました。それは苦しいものだったでしょう。しかし、その中で彼は喜び楽しみを経験しました。「人生の喜び楽しみを経験しながら労苦する」というコヘレトの当初の目的も果たされたのです。
 王として、最高の知者として、そして最大の富を獲得した者としてのコヘレトの「儲け」の探求が終わりました。彼は果たして「いつまでも残る儲け」を自分のものとすることができたのでしょうか。残念ながら、儲けは得られませんでした。そのことは結論を言う前から、コヘレトはわたしたちに示唆しています。まず、すべてのことを尋ね尽くすことは「骨おらせられる苦しい仕事」(1:13)ですし、曲げたものをまっすぐにし、欠けているものを数えようとするような不可能なことです(1:14)。さらに、知恵と愚かさを知り尽くすことは「風を捕らえるようなもの」であり(1:17)、知恵が増えれば、悩みと憂いが増えるだけです(1:18)。どう考えても儲けが生まれてきそうな状況ではありません。そして、自らの探求の最後にコヘレトは結論を手短に述べます。「日の下には益(儲け)となるものはない」(2:11)。王として、知恵を働かせ、富を蓄えても、結局いつまでも残る儲けを得ることはできませんでした。
 わたしたちは大変富んだ人たちを見るとうらやましく思います。自分にもあれば、と思うでしょう。しかし、コヘレトはわたしたちにどれだけ富を蓄えたとしても、そこからいつまでも残る「儲け」を得ることはできない、と警告しています。「富の蓄積」は最後には失望に終わるのです。なぜコヘレトはそう考えたのでしょうか。その理由は次回の学びで考えてみましょう。