同じことを繰り返し、変化のない世界(伝道の書1:1-11)

 人はどのように生きていけばいいのでしょうか。何を目的にして生きていけばいいのでしょうか。そのような質問に対する答えを伝道の書はわたしたちに与えてくれます。あまり一般的ではない聖書の書ですが、しばらく共に学び、考えてみたいと思います。

I. 伝道者(コヘレト)とは誰か(1:1)
 伝道の書は「伝道者」と呼ばれる人の言葉が記されています。「伝道者」と聞くと、人々にキリストの福音を語り、信仰へと導いていく人のことを思い浮かべるかもしれません。しかし、実際には彼はそのような「伝道者」ではありません。むしろ、年老いた賢者です。ここで「伝道者」と翻訳されているヘブライ語は「コヘレト」です。新共同約聖書ではこの名前をそのまま引用して、伝道の書のことを「コヘレトの言葉」と呼んでいます。「コヘレト」という言葉には「なにかを集める人」というニュアンスがあります。つまり、人を集めて、その人々に語る人(説教者や論客・弁士)、または箴言を集め、それを語る人(収集家である賢者)という意味ではないか、と考えられています。伝道の書の内容からもわかることですが、「伝道者」と呼ぶには少し不似合いなのが、この「コヘレト」です。
 コヘレトは「ダビデの子、エルサレムの王」と呼ばれています。さらに、1:12では「伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった」とみずから語っています。ダビデの子孫で、エルサレムを都とし、さらにユダだけではなく、エルサレムの王であったのはソロモンだけです。ですから、多くの人が「コヘレトはソロモンである」と考えています。けれでも、不思議なことにコヘレトは「わたしはソロモンである」とはいっさい語っていません。ですから、彼は、ソロモン王のようであって、ソロモン王であるとは言っていない、中途半端な存在です。

II. わたしたちが人生の中で考えなければならないことは何か(1:3)
 さて、この伝道の書でコヘレトは何を語っているのでしょうか。コヘレトの言葉を聞くわたしたちに何を訴えているのでしょうか。実は、コヘレトの言葉を理解するための鍵となる質問が1:3に書かれています。「日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるのか」。
 この質問には三つの特徴があります。まず、この質問は「益」があるかどうか、わたしたちに問いかけています。大坂商人は「もうかりまっか?」と挨拶した、と言われたりもします。実は、ここでいる「益」とは「儲け」という意味です。つまり、コヘレトはわたしたちに「儲け」があるのかどうかを熟考しなさい、と質問を投げかけています。単に「なにか良いことがありましたか」と問いかけているのではありません。「いつまでも残る儲けはありますか」という疑問を呈しているのです。次に、ここで言う「儲け」とは、わたしたちの「日々の労苦から生み出される儲け」のことです。汗水流して一生懸命、苦しみながら働いているわたしたちの労働から生み出される儲けはいったい何か、考えなさい、とコヘレトは訴えています。永続する儲けをわたしたちの労苦は生み出しているのでしょうか。それとも、儲けを生み出してはいない、無駄働きをしているのでしょうか。三つ目に、コヘレトは「日の下で」の労苦について語っています。つまり、「生まれてから死ぬまでの間、この地上で生かされている間に、どれほどの儲けがあるのか考えてみなさい」とわたしたちに問いかけているのです。いのちある間、働きバチのように働いている。それはそれですばらしいことですが、その労苦からいったいどのような儲けが生み出されるのか、吟味するように求められています。わたしたちはこのようなことを考えたことがあるでしょうか。

III. 蒸気のような世界(1:2, 4-11)
 「生きている間に一生懸命働いて何か儲けはあるのですか」とコヘレトはわたしたちに問いかけています。それとともに、わたしたちが住んでいる世界でどのようなものであるか、コヘレトはわたしたちの目を開いてくれています。
 わたしたちはどのような世界に住んでいるのでしょうか。コヘレトは「この世界はあらゆるものがただ同じことを繰り返しているにすぎない」と述べています(1:4-7)。世、すなわち一つの世代や時代が去り、さらに新しい世代や時代がやってくる。また、太陽は昇り、また沈む。風は南に吹き、さらに転じて、今度は北に向かって吹く。川はみな海に流れ込み、その流れはとどまることがない。コヘレトが描いているわたしたちの世界は、あらゆるものが終わることなく動き続けています。何一つとどまることはありません。しかし、その動きは単調です。さらに、太陽も風も川も、お互いになんの関わりもなく、勝手気ままに動いています。太陽は東から西に、風は北と南に、川は一方的に海に向かって、動き続けています。お互いに干渉しあうこともありませんし、助け合うこともありません。世界は孤独な存在がかってに集まっているような場所に過ぎません。
 このように、太陽も風も川もとどまることなく、単調に、同じことを、それぞれ勝手に繰り返しています。ところが、これだけ忙しく動いているにもかかわらず、「地は永遠に変わらない」(1:4)ですし、川が絶えず流れ注ぐ「海は満ちることがない」(1:7)のです。なんの変化も起こっていません。
 この世界の特徴を、実はわたしたち人間も共有しています(1:8-11)。人は様々な言葉を語ります。また、様々なものを見ますし、いろいろなことを聞きます。溢れるばかりの情報がわたしたちに流れ込んできます。しかし、わたしたちはそれに飽きることもなく、満足することもありません。むしろ、これらによって疲れてしまうだけです(1:8)。これだけたくさんの情報があるのに、どうしてわたしたちは満足することができないのでしょうか。むしろ、逆に疲れ切ってしまい、退屈にさえ思えるようになってしまうのでしょうか。それは「日の下に新しいものはない」(1:9)からです。ちょうど同じ川の水が繰り返し川に流れ込むために海が満ちあふれないように、なんら新しいことが起こらないから人は満足することがありません。同じことがただ意味なく繰り返されているから、どれだけ多くの言葉を語り、物事を見、話を聞いたとしても、人のこころになにかが満ちあふれることがないのです。
 もちろん、「ああ、新しいことが起こった」と感動する人もおられるかもしれません。しかし、それはすでにあったものに過ぎません(1:10)。では、もうすでに存在しているものを、どうして「新しいものだ」と勘違いしてしまうのでしょうか。それは、わたしたちがかつてあったことを忘れてしまっているから、全く覚えてはいないからです(1:11)。川のように押し寄せる出来事をしっかりと心にとめていないから、わたしたちは勘違いするのです。
 このように、わたしたちは同じことが単調に繰り返され、なんの変化もない世界に住んでいます。そして、満足することもなく、過去に起こったことを思い出すこともなく、単調に生きています。このような世界の特徴をコヘレトは「空である」と断じています(1:2)。「空っぽ」という意味よりむしろ「蒸気のようにつかみ所がない」世界、人間の思い通りにすることのできない世界です。わたしたちもそのように感じてはいないでしょうか。
 はたしてわたしたちが生きている間、一生懸命に労苦して、なにか永続するような儲けを自分の物にすることができるのでしょうか。蒸気のようにつかみ所のない世界で、自分の思うようには物事の動かない世界で、何を求めて生きていけばいいのでしょうか。コヘレトはその答えをもっています。彼の声に耳を傾けていきたいと思います。