ケープタウン決意表明(16)

 今回は長い部分です。教会では三回にわけて行いました。CTCのなかでも最も気合いが入っている部分といっても間違いはないでしょう。
 
IIE. キリストの教会を謙遜と誠実と質素へと呼び戻す
  
 ケープタウンにおける宣教会議では、エフェソの信徒への手紙を共に学びました。そして、本書では「歩く」ということばが頻繁に用いられていることに気がつきました(エフェソ2:2; 2:10; 4:1; 4:17; 5:2; 5:8; 5:15)。たとえば、
 

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、(4:1)

 
とあります。ここでの「歩く」というのは、単に歩行することではありません。「生き方と日常の行動」を表す比喩です。
 
1. 神の新しい人類として、他とははっきり異なる歩き方をしなさい
 
 パウロは、ほぼ異邦人から構成されているエフェソの教会に対して、次のように命じています。
 

そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。(4:17)

 
異邦人であった彼らが、異邦人と同じような生き方ではない、別の、神の民としての生き方をするように強く勧められていることがわかります。つまり、神の民は、異邦人の道、つまり「他の神々の道」を歩むか、「主の道」を歩むか、どちらかしかありません。そして、「主の道」という生き方を選ぶ勧めが強く語られています。
 世界宣教を妨げている最大の問題はなんでしょうか。もちろん、世界の様々な政治、経済、文化、社会、宗教、自然的な要素もあるでしょう。しかし、最大なのは「諸国を祝福する手段となるようにと神が造り、召された民」の中にある問題、それも「神ご自身の民の中にある偶像崇拝」だとケープタウン決意表明は語っています。クリスチャンの中に偶像崇拝がある、と言われた驚かれるかたも多くあるでしょう。神棚や仏壇などない、神社仏閣に拝みなど行きはしない、異教的な習慣から離れている、だから偶像崇拝などしているわけはない。そのように考えるでしょう。しかし、他の宗教の神々以外にも、「周囲の人々の偽りの神々」は存在します。そして、クリスチャンは、気がつかないうちにこのような偽りの神々を追いかけているのです。
 それでは、「クリスチャンの中の偶像崇拝」とはどこにあらわれるのでしょうか。それはクリスチャンの「歩み」、つまりその行動です。クリスチャンの行動とクリスチャンでない人の行動の間に何の違いもないとしたら、クリスチャンは実質的に「偶像崇拝」に生きているということができるでしょう。汚職、貪欲、性的混乱、離婚、宗教的慣習の取り扱い、人種が違う人への態度、大量消費、社会的偏見。これらの点において、クリスチャンとクリスチャンでない人の行動の間に何の違いもないとしたら、キリスト教になにができるのか、と世界の人々は当然思うでしょう。
 ですから、ケープタウン決意表明は、わたしたちにいくつかのチャレンジをしています。
 まず、「周囲の文化の偶像崇拝に巻き込まれている現実があることを直視」することです。わたしは無関係だ、と逃げることはできません。むしろ私たちが意識する、しないにかかわらず「崇拝している」偽りの神々を認識し、それを明るみにだす必要があります。さらに、このような偶像崇拝は個人の中だけではなく、教会にもあります。それを認識し、明るみにだすことも必要です。ですから、「預言者的な識別力」が必要となります。アモスやホセアが指摘したように、指摘すべきです。そして、それを認め、悔い改める勇気、偽りの神々を、まことの主であるイエスのみ名と権威において捨て去る勇気が必要です。そのために、祈り求めなければなりません。
 さらに、聖書的な生き方なしに聖書的宣教はありえません。偶像を捨てるだけではなく、新しい生き方を身に纏ってはじめて、宣教に携わることができます。そのようなこの世とは根本的に異なる生き方をすることを追い求める必要があります。ですから、
 

真実の義と聖という点において、神にかたどって造られた、新しい人を身につける(4:24、私訳)

 
ことにおいての献身が、自らに、そしてすべてのキリストを告白する人に求められています。
 
2. 愛にあって歩み、性の混乱という偶像崇拝を捨て去りなさい
 
 この部分では特に四つの観点から偶像崇拝とそれに伴う行動が描かれています。一番最初に取り上げられているのは、「性の混乱」という偶像崇拝です。
 

あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。(エフェソ5:3-5)

 
ここで言われている「みだらな者」は性的な不品行を行っている人のことを指しています。性の混乱の問題を理解する上で、まず適切な性的な関係とはなんであるか、聖書から教えられることが大切です。
 創世記2章で描かれている意図された結婚の姿は、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)とあるように、「一人の男と一人の女」の献身的で、排他的で、忠実な関係によって成り立ちます。そして、結婚を通して「二人は一体」となり、「自分の生まれた家族とは別の新たな社会的単位を形成」するようになります。さらに、「一体」という事実を表現する性的な交わりも献身的で、排他的で、忠実な「一人の男と一人の女」の結婚という絆の範囲内です。なお、エフェソの信徒への手紙を見ると、この結婚による一体性は、比喩としてキリストと教会の関係を反映していますし(エフェソ5:22-33)、さらにはユダヤ人と異邦人がキリストによって一つとされたことをも表しています(2:15)。
 残念ながら、意図された結婚の姿は、現実の世界の中で、見せかけの愛、そして性の混乱という形でゆがめられています。様々な形での婚前または婚外の性的行為を通して、性は混乱しています。性という名の神に仕える偶像崇拝と呼んでも間違いないでしょう。しかし性の混乱そのものの最大の問題は、そのようなことによって人は「被造物と救済における神のみこころと祝福からそれて」いるのです。その結果、結婚は崩壊し、家庭は崩壊し、社会は衰退していきます。孤独を埋めるための安易な性行為が一般化したり、性行為を通しての搾取が、たとえば人身売買などを通して行われていきます。そして、これらが教会内部の深刻な問題となっており、リーダーシップが性の混乱を通して、つまずいていくのです。これは世界の教会の現実であり、もちろん日本の教会の現実でもあります。単純化はできませんが、落ち着いてきたとはいえ、相対離婚率(離婚件数/婚姻件数)は2013年で35%、人口千に対する比である離婚率は1.86となっています。この背景には、性の混乱による結婚の崩壊があることは明白でしょう。
 私たちを取り巻く世界の現況とそれに影響されて、なんら変わらず、異も唱えない教会の現況を覚える時、深い自省ときづきをいただき、そして、あえて性の混乱という偶像崇拝に生きている文化に教会が異を唱えていく必要があります。
 そのために、牧師はどうあるべきでしょうか。(1)性に関する会話を教会でもする。その中で、健全な関係、神の計画を伝え、社会の現実、クリスチャンの現実を率直に認めていく。(2)神の基準を教えつつ、性的誘惑と罪に弱い者であるという認識を持つ。(3)性的関係における忠実さにおいて、聖書の基準に従っていることにおいて模範となるよう努力する。
 教会の一員はどうあるべきでしょうか。(1)忠実な結婚関係と健全な家庭生活を強めるために教会と社会において働く。(2)結婚して、子どもを育てている、ということだけがあたかも標準であるかのようにふるまうのではなく、独身者、配偶者を亡くした人、子どものいない人の存在を認め、育み、このような人たちの賜物を用いる。(3)様々な性の混乱(ポルノグラフィー、不倫、無秩序の性関係)に抵抗する。(4)同性愛関係へと人々をひきつけるこころの奥底にある問題を理解しつつ、それに取り組む。愛とあわれみと正義をもって人々に手を差し伸べ、同性愛者への憎悪、ことばでの暴力、暴行、迫害を拒絶、糾弾する。(5)神の恵みによってあらゆる人のあらゆる状況も、変化と回復の可能性があることをこころに留める。
 
 性の混乱と密接に関わりつつ、しかし、一概に同一視できない現代の問題として、HIV/AIDSがあります。全世界で3400万人の感染者がいます。新規感染者が減ってきているとはいえ、2010年で270万人の人が新たに感染しています。特に、サハラ以南のアフリカでは、世界の人口の12%しか占めていないのに、全患者の68%をしめているのです。特に、南アフリカは世界最大のHIV養成者人口(560万人)を抱えています。その中には、教会に集う人も数多く、AIDSを発症した親が死亡したために孤児となった子どもたちも数多くいます。かつては死に至る病と考えられていたHIV/AIDSでしたが、近年は治療方法が確立し、適切な治療を受け続けるならば、感染の危険性はあっても、一種の慢性疾患と見なせる程度までは来ています。そうであったとしても、HIV/AIDSに対して、教会は全人的な福音の応答をする必要があります。
 ケープタウン決意表明は、HIV/AIDSの無視することのできない現実を踏まえて、どのような取り組みをなすべきか、いくつかの提案がなされています。
 まず、すべての牧師が、先に述べた性の混乱という偶像崇拝に対して異を唱える行動をすると共に、HIV/AIDSが確かに「結婚の枠外での複数の性的関係を結ぶことが広く行われている事実」をその感染の急速な拡大のいくつかの理由の一つであることを覚えるべきです(さらに、ひとつの理由が薬物使用のための注射器を介したものです)。その一方で、HIV/AIDS感染者への「糾弾、敵対行為、烙印を押す行為、差別」を拒絶し、告白すべきです。教会がこのような行動に加わりやすい傾向を覚えなければなりません。このような行動は罪であり、キリストの誉れを貶める行為です。「裁くには遅く、人の地位を回復させることと赦すことにおいては早くあるべき」です。それとともに、HIV/AIDS感染者の多くの人々が自分の落ち度によってではなく、他者の世話をすることによって感染している事実を認識する必要があります(他者の治療のため、輸血のため、配偶者からの伝染など)。三つめに、実際的な支援を、特にHIV/AIDSの被害が最も大きい地域にいる兄弟姉妹のかたわらにあって支えることが大切です。
 
3. へりくだって歩み、権力に対する偶像崇拝を捨て去りなさい
 
 ケープタウン決意表明では、これから三つの偶像崇拝について語ります。それらは、権力、成功、貪欲です。その一方で、それとは正反対の歩みとして、謙遜(humility)、誠実(integrity)、質素(simplicity)を推奨しています。これら三つの歩みの英語の頭文字をとり、HIS(「彼の」つまり「イエスのもの」)と呼ぶことがあります。
 
 堕落と罪の現実に溢れるこの世界に生きる中で、権力が誤って用いられることをくり返しみます。力ある者が他者を虐待し、他者が生み出したものを情け容赦なく搾取する実情を見ます。この権力は、時として、ある性別、ある人種、ある社会的地位に基づいて与えられると考える場合が多く、性別、人種、社会的地位の優越性が主張され、それゆえにそうでない者たちが虐待され、搾取されることがままあります。世界でも、そして日本でも、女性差別、人種差別(アメリカの奴隷制南アフリカアパルトヘイト、ナチのユダヤ人虐殺など)、社会的地位による差別(インドでのカースト制、母子もしくは父子家庭への差別、独身者への差別など)を見る事ができます。これらの差別とそれに伴う権力の乱用は、偶像崇拝の聴講であることをキリスト者は覚えるべきです。
 このような現実に満ちた世界に生きていたパウロは、ですから、次のように命じています。
 

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。(エフェソ5:21)

 
「キリストのゆえに互いに仕え合うべきである」。謙遜をもって、互いに従いあい、互いに愛し合う、そのような関係が夫婦(エフェソ5:22−33)、親子(6:1−4)、社会的経済的人間関係(6:5−9)においてあふれることこと、キリスト教会の信頼性を確かなものとする生き方です。そして、ケープタウン決意表明は、それが現実になり、人々によって生きられることを願っています。
 そのために、牧師に、そして教会のリーダーたちに求められていることが、この相互服従と相互愛が実現するように、「信者が理解し、率直に話し合い、実践するのを支援する」ことです。一方的な「命令」によってこのことが実現することはありえません。指導者により一方的な命令という行為そのものが、いつも権力の乱用という危険と隣り合わせであるからです。だからこそ、信者が理解し、話し合い、そして実践できるように支援することに指導者たちはこころを向けることが大切です。そのようにして養われてはじめて、「貪欲と権力と悪用に満ちた世の中にあって、・・・教会が、集う人々の間に親切なへりくだりと私心のない愛が見られる場所となる」のです。
 ケープタウン決意表明は続いて、特に問題となっている夫婦関係についてスペースを割いています。特に、クリスチャンである夫である妻の虐待の問題です。これが、牧師やリーダーによってもなされている現実を嘆いています。夫による妻のあらゆる虐待(ことばにより、感情により、身体的に)は一切正当化されません。様々な文化的な違いを受け入れているケープタウン決意表明ですが、夫による妻の虐待の問題に関しては、どのような文化的慣習であっても、どのような「ゆがんだ」聖書解釈に基づくものであったとしても、普遍的に間違っていると主張しています。むしろ、エフェソ5:25−33に描かれているように、「イエス・キリストが教会に対して示した自己犠牲的な愛にならう愛と配慮を持った男性に服従する」という意味で、服従するように命じられている女性ではなく、服従される男性に対して厳しい目を向けていることを忘れてはいけません。
 
4. 誠実に歩み、成功に対する偶像崇拝を捨て去りなさい
 
 神の国の進展を教会のうちに見るわたしたちの働きにおいても、世の中の成功と結果を重んじる傾向が入り込んでいます。それは、決して、最近始まったばかりのものではなく、イエスの弟子たちのあいだにも見出されてきた者でしょう。残念ながら、成功と結果を求める余り、誠実に歩むことが犠牲になってしまっています。会員数や出席者数、救われた人の数、ささげられた献金の額がゆがめられ、誇張され報告されている現実に私たちは気がついています。しかし、聖書はなんと言っているでしょうか。
 

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――(エフェソ5:8−9)

 
正義と真理のうちに歩む、誠実に歩む事こそ、光の中を歩む、光の子の歩みなのです。
 このようにして、成功とそれをあらわす結果を重んじるという偶像崇拝に陥った結果、誠実であることを失った教会に対して、ケープタウン決意表明は、そのような偶像崇拝を捨てなさい、と命じています。
 具体的には、教会のリーダーに対して、「完全に真実であることから少しだけはずれるという誘惑」に抵抗するように述べています。ちょっとした歪曲、操作、誇張。「少しだけ」現実とは異なった値を出すことによって「結果が出ていることを示す」という誘惑にリーダーは晒されています。だからこそ、たとえ数値がリーダーの「失敗・無力さ」をあらわすようなものであったとしても、それを真実に示す誠実さが求められています。
 さらに忘れてはいけないのは、「成功と結果」を教会と宣教のリーダーが求めるのは、彼らの背後にあって、彼らの為に資金を提供する人々、つまり献金をもって支えている人々が、同様に「成功と結果」を求める傾向があるからです。ですから、彼らに対して、「適切な説明責任は必要だが、その範囲を超えて、数値化された成果や目に見える結果を非現実的な程度にまで要求することはやめるように」と決意表明は語っています。働き人が透明性を失ったり、説明できないようなことをすることを一切許容してはいません。しかし、成功と結果のみを求めて資金を提供し、そうでなければ資金を止める、というような態度で現地での働き人に対して誤ったプレッシャーをかけることが間違っている、偶像崇拝であることに気がつくべきです。
 

わたしの神よ、わたしはあなたが人の心を調べ、正しいものを喜ばれることを知っています。わたしは正しい心をもってこのすべてのものを寄進いたしました。また今、ここにいるあなたの民が寄進するのを、わたしは喜びながら見ました。(1歴代29:17)

 
献げ物はあくまでも心を知られ、正しさ、誠実さを喜ばれる主への献げ物であることをいつも心にとどめるべきです。
 
5. 質素に歩み、貪欲に対する偶像崇拝を捨て去りなさい
  
 エフェソ5:5の次のみことばが、偶像崇拝の本質を的確に指摘しています。
 

すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。

 
貪欲こそ偶像崇拝の本質といっても間違いないでしょう。そして、この貪欲が巧妙にイエス・キリストの福音を侵食して登場しているのが、「繁栄の福音」です。
 繁栄の福音とは、ケープタウン決意表明によれば、「信者は健康と富という祝福を得る権利を持ち、信者は信仰の肯定的告白と、金銭または物質の捧げものによる『種まき』を通して、これらの祝福を入手することができる、とする教え」を指します。それは今や、世界中の多数の教派の中に広がっています。この教えには、いくつかの大きな問題点があります。
 (1)神の奇跡的な力が、あたかも信仰告白と献げ物によって入手できると考え、機械的に神を扱う点。神をなんらのテクニック(ことば、行為、才能、物体、儀式など)によって自由自在に操ることができると考えている。
 (2)霊的な祝福が物質的祝福によって測定可能であると教える点。抑圧、ごまかし、汚職によっても富が得られる。逆に、貧困、病気、若くして死ぬことは敬虔な信仰者にも訪れる。霊的な祝福は、迫害に直面している最悪の状態の中にもあるが、それを一切否定している。
 (3)繁栄の福音を盛んに勧める人々のライフスタイルが倫理的ではない点。伝道ではなく、軌跡が追求される。悔い改めが説教者の属する組織への献金にすり替えられる。
 (4)繁栄の福音が貧困層の中で特に語られているが、それが貧困に対する持続的な解決を提供しない点。むしろ、貪欲に継続して押し流されて、永遠の救いのメッセージから人々を遠ざけてしまう。
 もちろん、神は奇跡的な力をもち、その力への期待に満ちて生きることはすばらしいことです。聖書には、目に見える祝福を神の祝福の一側面として含んでいるところもあります。神の力と勝利を聖書はほめたたえています。病気のいやしと貧困と苦しみからの持続的な解放がもたされるように祈っています。キリストの名によってこれらのことがなされることを肯定します。しかし、繁栄の福音はバランスの取れた、聖書に基づくキリスト教とは相容れません。
 わたしたちは注意深く繁栄の福音を検証する必要があります。その聖書解釈が聖書全体の文脈の中で、バランスよく解釈されているか見直すことが必要です。さらに、貧困が存在する場に関わり、そこに正義と持続的な改革がもたらされるように、思いやりと行動をもってキリスト者は働く必要があります。そして、何よりも、私たちひとりびとりが、自己の利益の追求や貪欲という偶像崇拝から解放され、自己犠牲と惜しみなくささげる者となりましょう。消費主義社会の真ん中で、終わる事なく貪欲を追求する社会の中で、むしろ質素を私たちの生き方の基本とさせていただきましょう。