ケープタウン決意表明(14)

IIC. 他の信仰を持つ人々の中でキリストの愛を生きる
 
1. 「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」には他の信仰を持つ人々も含まれる
 
 先に、(I-7-D)において、イエスの弟子として、わたしたちは、他の信仰を持つ人、私たちを憎む人、私たちを中傷し、迫害する人、私たちを殺そうとする人さえも愛するようにと招かれていることが述べられました。特にここでは、キリスト教信仰以外の信仰を持つ人々に焦点を当て、彼らを愛することを考えましょう。
 キリスト者の人口が一%未満である日本に生きる限り、わたしたちは他の信仰を持つ人と関わる事なしに歩む事はできません。そして、そのようなひとりびとりを「隣人とみなす」だけではなく、そのようなひとりびとりの「隣人になる」ことは当然、わたしたちがなすべきことです。日本人の数多くがそうである「無宗教な」人々に対しては、問題なくできるでしょう。しかし、その隣人が、たとえば「オウム真理教の信者」であったらどうでしょうか。イスラム教徒であったら、どうでしょうか。「キリスト教を徹底的に排除すること」を旨とした信仰に生きている人であったらどうでしょうか。その時にも、「あなたがた自身のように愛する」というみことばに生きる事ができるでしょうか。
 どのようなケースであったとしても、決意表明にあるように、「物腰は柔らかいが無批判ではなく、見分ける力を持ちつつ易々とだまされず、私たちが直面しうるどんな脅威にも注意を払いながら恐れに支配されないよう」関わるべきです。攻撃的ではなく、しかし適切に他の宗教の問題点を理解し、見分けることが大切です。時として、他宗教の方々がわたしたちにとって脅威になることがあるかも知れません。しかし、そうであったとしても、恐れに支配されずに関わる必要があります。
 さらに、他の信仰を持つ人々への伝道について、「愛をもって」取り組むことが大切です。イエス・キリストの福音がどれほどすばらしいものであったとしても、キリスト教への回心を強要することは間違っています。一見、回心したかのように見えますが、そのような伝道方策は、「自分の仲間、自分の宗教、自分の教派」という「自分中心」の働きであり、「自己犠牲のキリストの愛」とは全く関わりはありません。むしろ、パウロ使徒言行録の中でおこなっているように、正直で、率直で、筋の通った議論の中で福音を表明しつつ、それを聞いた人がどのような決心をするかはその人たちに委ねることが大切です。神の霊が働いて、信仰を生み出して下さる、その時をマツ必要があります。
 
 このような立場で、他の信仰を持つ人を愛するわたしたちは、いくつかの行動指標を持つことができます。
 まず、1ペテロ3:15-16がわたしたちの証しの大原則です。
 

あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。

 
わたしたちが細心の注意を払い、倫理性を守り、強制せず、欺かず、むしろ敬意を払って証しをする時、そのような形で隣人への愛を示すとき、そのような証しの方法そのものがキリストの福音のすばらしさの証しとなります。
 さらに、他の信仰を持つ人と交友を持ち、「愛と善意ともてなしの心」を示していくことを忘れてはいけません。そして、何よりも彼らの信仰を正しく理解することが大切です。そうすれば、虚偽を流布することもないでしょうし、メディアやあおり立てる人々の偏見、嫌悪、恐怖に振り回されることもなく、むしろそれらの過ちを見抜き、抵抗できるでしょう。「長いものに巻かれてしまう」傾向の文化に生きる私たちだからこそ、特に最新の注意を払うべきです。たとえば、あなたはイスラム教を正しく理解しているでしょうか。日本では希でしょうが、世界の多くの国で暴力的な攻撃を他の信仰の人々から受けることがあります。そのような中であっても、キリストが歩まれたように、暴力と復習を拒絶し続けることが大切です。そして、福音の真理に対する確固たる確信を持ちつつ、敬意を払って他の信仰の人のことばに傾聴することが必要です。そのような隣人愛に満ちた対話を通して、キリストの福音のすばらしさがむしろ証しされていくのです。
 
2. キリストの愛は、福音のために苦しむこと、時には死ぬことをもわたしたちに迫る
  
 宣教の歴史を振り返っても分かる事ですが、キリストの証人として宣教にたずさわるとき、苦しみを避けて通ることはできない。旧約聖書預言者たちがそうであり、使徒たちもそうであった。苦しみの中にあったパウロは次のように語っている。
 

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(2コリント12:9-10)

 
苦しむ用意なしに宣教にたずさわることは、間違っています。むしろ、マニラ宣言では「殉教は、キリストが特別に栄誉を与えると約束された、証しの形態である」と語り、殉教が神の特別な栄誉であるとまで言っています。敵意に満ちた背景でも、主の召しに忠実にイエス・キリストを証し、その代償として受けた迫害であるからです。そして、宣教者の苦しみを通して、不思議なことではありますが、キリストの福音は拡大していくのです。さらに、愛する者の殉教を経験したり、拷問や迫害に耐えつつも、そのような人々をも敵として憎むのではなく、むしろ隣人として愛し続けている人がいます。
 ですから、現代日本に生きる私たちは、「安逸と反映」のなかで眠り続けるべきではありません。福音のために苦しむことを迫るキリストの招きの声に耳を傾け、それぞれの所で証しに生きる必要があります。
 さらに、世界中におられる福音のゆえに苦しんでいる人々の証しを涙と祈りをもって聞き、心に留め続ける必要があります。そして、決意表明にあるように、祈るべきです。敵意に囲まれた中での証し人たちの上に「あわれみと勇気」が与えられ、福音が「実」を結ぶようにと。さらに、苦しむ人と共に悲しみのみならず、逆に拒絶し続ける人々に対する神の悲しみを心に留め、彼らも神との和解を見いだすことができるようにと祈り求めます。
 
3. 行いにあらわれる愛は、恵みの福音を体現し、福音の推薦状となる
  
 わたしたちがキリストの香りを放つのは、わたしたちが他の信仰を持つ人々の中で、神の恵みの香りに満たされ、生き、仕えることによってです。そのことにより、人々はキリストの香りを嗅ぎ、神がよい方であることを味わい知るのです。クリスチャンの愛に満ちた生活と奉仕を通して、キリストの福音は他の信仰を持つ日々との間で魅力的になっていくのです。理屈ではなく、まさに生き方です。
 しかし、名誉を重んじる文化において、恥はそのまま復讐へと進んで行きます。しかし、傷つくことをおそれず、自らを捧げ続ける神の愛と恵みは、そのような文化の中で全く異質なものとして受けとめられます。そして、時には「不快」とさえ思われるのです。しかし、飢え渇いている者は、異質であってもこの恵みを味わっていくのです。最初は、やっぱり不快でしょう。しかし、チーズのように慣れ親しんでいくとき、その魅力から離れることができなくなっていくのです。それがキリストのかおりです。
 だからこそ、困難の地から逃げるのではなく、そこで長期間にわかって生活し、愛し、仕えることへの献身へとわたしたちは招かれています。それは生涯を通じて、はては死に至るような忍耐と持久力を求めるでしょう。しかし、そのかおりはかならず世界中にあふれるのです。
 
4. 愛は弟子としての生き方の多様性を尊重する
 
 「インサイダー運動」は、イスラム圏やヒンズー圏に見られる運動です。これらの社会的、文化的な出身共同体の内部で生活し、様々な儀式を執りおこないつつも、イエスと聖書を中心とした交わり、教え、礼拝、祈りを小グループで行っている人々の群を指しています。これらの社会では、共同体の結びつきが強いために、キリストを信じ、別のキリスト者共同体を作り上げるとそれまで所属していた共同体の結びつきや家族から全く分離してしまう、という結果に陥ります。教会があたかも家族の一員を盗み取ったかのように見られ、結果的に福音宣教の機会が失われて行くでしょう。家族が皆、キリスト者となったとしても、その家族が住む共同体という社会から分離するのではなく、イエスの主権と聖書の権威の元に行きつつ、生まれてきた社会で生き続けようとするのです。
 このような運動の利点は、社会的、文化的な出身共同体にとどまり続けることが可能であるという点です。その一方で、混合主義(シンクレティズム)に陥り、もはやキリスト教とは呼べない形態の信仰となる危険性があります。そのために、「インサイダー運動」は様々な評価が与えられています。日本での状況を思い浮かべつつ、考えてみてください。田舎の共同体の祭りと葬儀という儀式を行いつつも、イエスを主とし、聖書の権威の元に生きるのです。そのような生き方をしている人々をクリスチャンと呼ぶことが可能なのでしょうか。日本に於いては、国家神道の元にキリスト教会が下ってしまった戦前の経験があり、日本における「インサイダー運動」が可能なのか、疑問の声をあげる人もいます。ただし、混合主義は、どのような文化であったとしても、その文化の中で自分の信仰を表現する際に直面する危険ですから、インサイダー運動のみが危険だとは言えません。
 ケープタウン決意表明は、インサイダー運動のもつ問題点を見いだしつつも、神がそこに働いている可能性を十分に踏まえて、性急な推進と性急な糾弾のどちらをも戒めています。むしろ、使徒言行録において起こった、異邦人が神の民に加えられた現実に対するバルナバの行動から(使徒11:19-24)、(1)神に立ち帰ろうとする異邦人を悩ますことなく(使徒15:19)、そのために助けの手を述べること、(2)信仰の弱い人を受け入れ、神のなしておられるわざに驚きを持ちつつ、様々な視点の存在を認めて、非難の応酬に走ることがないように、対話の道を選ぶことを勧めています。
 
5. 愛は散らされた人々に手を差し伸べる
 
 現代はこれまでにないほど人々が移動する時代です。二億人の人が、出身国ではない地に住んでいると考えられます。そのような人を「ディアスポラ(散らされた人々)」と呼びます。
 ディアスポラの民が世界に散らされているのには、様々な理由があります。ある者は自分からすすんで他国へと移住していきました。しかし、移住せざるをえなかった人々も数多くいます。職を求めて国を移動する人がいます(経済的移住者)。戦争や自然災害のゆえに、同じ国内の別の地に移動せざるをえなかった人も多くいます。また、国外へと、難民として移動していった人々もいるでしょう。あちこちで起こった民族浄化運動のため、抹殺を逃れて移動した犠牲者たちもいます。宗教の違いを原因とした暴力や迫害から逃亡した人もいるでしょう。干ばつ、洪水、戦争が生み出した飢饉のために自らの国を逃れた民も居ます(ヤコブとその家族)。農村部の貧困が原因で、都市に流入している数多くの人々が存在します。
 このように、原因は様々なですが、現代は人々が移動する時代です。このような時代の動きは、神の宣教の目的のうちにあることを確信をしますが、そこに悪や苦しみが存在することも事実です。あたかもヨセフが語ったように、
 

あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。(創世記50:20)

 
というケースが世界中にあふれています。
 さて、日本人について目を向けるならば、114万人(2010年)が海外に長期滞在しています。北米に39万人、中国に13万人、続いてオーストラリア、英国、ブラジル、カナダ、タイ、と続きます。彼らへの伝道は積極的になされており、信仰をもって帰国するもの、求道の思いをえて帰国する日本人は年間1600人ほどいます。ところが、そのうちの80%は数年のうちに教会から離れます。
 このような現状を考えるとき、ディアスポラの存在はチャンスであると考え、その機会を大切に用いる必要があります。そして、自国民でディアスポラとなっている人に他国で仕える、もしくは自国にディアスポラとして来ておられる方に仕える働き人の訓練と養成が大切になってきます。
 さらに、クリスチャン以外の宗教的背景を持つ移民の人々をクリスチャンがことばと行いをもって受け入れることが大切です。「見知らぬ人を愛し、外国人の主張を擁護し、囚人を訪ね、もてなしの精神を実践し、友情を築き上げ、家に招き、助けと世話を提供する」というケープタウン決意表明で示唆されている行動は、聖書に一貫して示されているものです。
 

寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。(レビ記19:33-34)

 
また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」(ルカ14:12-14)