父よ、父たちよ

父よ、父たちよ

父よ、父たちよ

 先日お会いし、本をいただいたので、一気に読みました。
 感謝のお手紙の中に書いた、ちょっとした書評を載せておきます。
 
読み始めて、先生の説教と同じ流れの文章である、と感じました。先生の考える速度で、読者が一緒に歩んでいく、そんな本なのだ、と思いました。わたしが文書を書くと、関西人特有の「いらち」で、読者より先に進んでいきそうですが、先生はそんなことはせず、ゆっくりと考え、書いておられる、ということを感じました。
 
哲学者や文学者が登場し、また先生との会話の中ででてきたいくつかの神学的課題があらわれ、ひさびさに福音的なconstructive theologyの本を読んでいる、と感じました。こんな人と比べられると驚かれるかも知れませんが、むかし、milosof volfのexlusion and embraceを読んだときに少し似た気分でした。芳賀力なんかも、constructive theologyをしようとしていますが、それとは違う、なんとなく自分の出所と近い(だからvolfなのです)constructive theologyでした。ありがとうございます。とりあえず、他の本も読んでみようかな、と思った次第です。
 
三点ほど、「聖書学者」としての読後感を。ひとつは、イサク奉献の読みです。最近、創世記22章を読めば読むほど、淡々とイサクを献げるアブラハムの姿に「アブラハムはすでに自分のこころに決めていたことをしたに過ぎない」という解釈に至らざるをえない、と感じています。22章の時点で、何が起ころうと、アブラハムは主に従うことを決めていたと。だから、一切の無駄を省いた、そしてアブラハムの感情など一切入れない、淡々とした物語りになっているのではと考えています。先生もその当たりに触れておられ、仲間を見つけた気分でした。
 
二つ目は、先生ご自身も語っておられましたが、やはりローマ人への手紙の読みなどは、古い枠組みであるな、ということです。NT WrightのRomans(New Interpreter's Bible)なんかをお読みになられれば、もうすこし、違った理解になったのかな、と思います。哲学者達の文章の読みにはいろいろとうならされていましたが、このあたりはもうすこし良いものにもなりえただろうなあ、と思った次第です(すいません、専門家は自分のフィールドには結構、自信を持って言いたいことを言いますので、おゆるし下さい)。
 
もう一点は、「父のふところで遊ぶ子なるキリスト」の章です。「キリスト」の「あそび」と来たので、箴言8:30-31のあたりの解釈がでてくるかな、と期待しましたが、出てこなかったので、すこし残念に思いました。8:30の「アモーン」は「匠」みたいな訳が多く当てられていますが、最近の研究では「おさなご」的な意味だと考える(そのほうが文脈にあう)ものが多くなっています。知恵、キリスト、という解釈の流れをこの箇所で援用してもおもしろかったかな、と思った次第です。