バイナリーじゃないんだよね

 きのうのfacebookで書いたことをまとめておく。

まず、http://kariyatetsu.com/blog/1450.phpが参照されてきたので、
 

内田樹がすでに同じことを指摘していますね。ただし、http://agora-web.jp/archives/1438482.html が震災について指摘しているように、「敵」を作るものを「敵」としてシンボル化してしまい、「敵を作る敵に敵対する」というバイナリーな物事の考え方そのものが問題ではないのだろうか。橋下氏に反対するものも、結局、彼と同じ思想もしくはレトリックに乗っているのでは。結局は、善悪つけがたい現実を前にして、それぞれの主張の(部分的な)正当性を覚えつつ、じゃあ、どうすべきか、考える。そんな柔らかい考え方こそが、長い目で見るならば「敵」をつくるバイナリーな考え方を乗り越えることができると考えているのですが。

 
と書きました。
 すると、「しかし、我々キリスト者も同じ過ちをおかしやすいのではないかな?」というご意見を頂いたので、次のように、応答した次第です。
 

まさにそこがわたしのポイントです。しかし、聖書を真剣に読むとき、そこにはそんなバイナリーな考え方を打ち砕く生き方が描かれています。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という生き方は、そんなバイナリーな物事とのとらえ方に風穴を開けるでしょう(なぜなら、このことばに従う時、敵こそが愛すべき隣人となるから)。また、「愛をもって真理を語る」という生き方も同様です。敵とみなされるだろう人でも、味方と考えられる人であろうと、真理を語る、それも愛をもって語るべきことを教えられるからです。まあ、イエス御自身が、ある意味で、バイナリーにしか物事を捉えることができないキリスト者に警告を与えられているでしょうね。

 すると、「『正しさ』の主張というところにバイナリーの出発点があること肝に銘じるべきでしょうね。」と来たので、
 

「正しさ」をどのように定義するかによると思います。「正しさ」を「誤り」と相反する概念として捉えるならば、そこにバイナリーの出発点があると思います。しかし、「正しさ」がよりファジーなもの、グレイな部分のあるものと理解しているのならば(たとえば伝道者の書7章)、「正しさ」を求めつつ、バイナリーに陥らずに進むことができるのではないでしょうか。
 このあたりは、モダニズムを批判し、さらにそれを乗り越える哲学的努力の必要性と重なると思います。ポスト・ポストモダニズムかな?

 
とご返答させていただいたしだい。
 で、なにを言いたいのか、というと、議論の次元をいつもひとつあげることがここでも重要だなあ、ということ。いろいろな人がいろいろなことを言っているけれども、なにかどこかしっくりいかない、と感じることが多い。その原因がなんだろうか、と考えると、結局はみないわゆる「モダニズム」もしくは「ポスト啓蒙主義」的な世界理解を前提に議論をしているということ。そして、すべてがバイナリー(あれか、これか)で考えている。でも、それが違うんだよね、ものごとにはファジーな部分があるんだよね、と言いたいのだろう。ファジーな部分を認めないから、結局、対話もできなような気もするんだけどなあ。どうでしょうか。めちゃ、ファジーです。