ケープタウン決意表明(9)

8. 私たちは神の福音を愛する
 
 キリスト者、すなわちイエスの弟子である私たちは、「福音の民」、つまりすばらしい知らせによって生み出された神の民である。福音がなければ、われわれは存在しない。
 しかし、福音とは何であろうか。「イエス・キリストを信じれば、あなたは罪から救われて、天国にいけます」を福音であるわたしたちは理解しがちである。しかし、それは厳密には正しくない。人間の罪の現実についての証しは福音そのものではない。「福音の背景」にすぎない。人間の応答(たとば、信じること)とそれに伴う確信(救いの確信)などを「福音」の一部に入れてしまいがちだが、そうではない。それは「福音が私たちに約束するもの」である。さらに、信仰によって私たちが造りかえられることも福音そのものではない。それは、「福音が生み出す変革」である。福音とは、あくまでも「神の福音」であって、「イエス・キリストを通しての神の救いの業」である。
 
A. 私たちは悪い知らせに満ちた世界にあってよい知らせを愛す
 
 まず、「福音の背景」であるこの世界の現実、悪い知らせに満ちている現実を見てみよう。創世記3章にこの世界の現実の姿が描かれている。ここに描かれているのは、神に反逆する人間である。神の権威のもとにあることを拒み、むしろ自らが「神のように善悪を知るものとなる」(3:5)ことを願って、「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない」(3:3)という神の言葉に背いている。これは、最初の夫婦が行った過去の記録だけではない。今、この時代に生きる私たちも、同じように、神に反逆し、神の権威を拒絶し、神の言葉に背いている。そして、神の臨在の地であるエデンから追い払われ(3:23)、神から遠ざけられ、男女間が「お前は男を求め、彼はお前を支配する」(3:16)となることにより他の人々との関係が疎遠となり、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」(3:17)とあるように、創造された秩序から人間は疎外されるものとなった。
 この悪い知らせに満ちている現実の中にとどまっているのならば、どうなるのだろうか。
 

主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。(2テサロニケ1:9)

 
とあるように、終わりの日には刑罰が待ちかまえているばかりである。
 ここで注目しておきたいのは、罪の結果と悪の力は実に広範囲にわたって被造物に拡がっている点である。ケープタウン決意表明が語っているように、
 

罪の結果と悪の力は、人間の人格のあらゆる次元(霊的、肉体的、知的、関係的)を堕落させてきた。それらは、歴史上のすべての文化と全世代にわたり、文化的、経済的、社会的、政治的、宗教的な実態にしみ込んできた。それらは人類に対しては測り知れない不幸を、神の被造物に対しては測り知れない損傷を引き起こしてきた。

 
悪い知らせと関わりのない所は一箇所もない。私たちはこの影響を軽く扱いがちである。
 
B. 私たちは福音が語るストーリーを愛する
 
 それでは、「福音」とはなにか。(1)まず、神はアブラハムに対して約束をされた。彼の子孫を通して地上のすべての国民を祝福する(創世記12:3)というものである。(2)次に、神はダビデに対して約束をされた。彼の子、約束されたメシアである王を通して、神の王国を打ち立て、世界の救いの為に行動するというものである。このダビデへの約束をパウロは次のように言っている。
 

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、・・・(ローマ1:1−3)

 
(3)そして、ナザレのイエスの生と死と復活を通して、神はこの約束を成就された。この福音(1コリント15:1参照)をパウロは次のように語っている。
 

キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。(1コリント15:3−5)

 
しかし、イエスを通してなされた神の業は、単にその死と復活だけではない。イエスの生涯と死と復活を綴ったものであるマルコによる福音書が「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)で始められていることからわかるように、「ナザレのイエスの生と死と復活という歴史上の出来事」すべてが福音であり、それは四つの福音書に綴られている福音のストーリーである。これらはすべて神の福音、神がなしてくださったことである。
 しかし、神の福音は私たちには無関係ではない。私たちを巻き込んでいる。(1)十字架において、神は私たちの罪が受けるべき裁きを自分の身に引き受けられた(2ペテロ2:24)。さらに、(2)イエスを通してなされた神のわざにおいて、神はサタンと死とすべての悪の力に勝利され、その恐怖から私たちを解放された(ヘブル2:14−15)。そして、(3)神と人の和解、人と人との和解を遂行し(エペソ2:14−18)、全被造物の究極的和解を成就された(コロサイ1:20)。これらすべての神の業をまとめて聖書は「神はキリストによって世を御自分と和解させた」(2コリント5:19)と語っている。
 このように、すばらしい知らせ、福音は、徹頭徹尾、神のわざである。神が約束され、イエスを通して実現された。そして、神が悪い知らせに満ちたこの世界を変えられたのである。神の福音に人間が入り込む余地はない。
 
C. 私たちは福音がもたらす確信を愛す
 
 それでは、この神の福音は私たちに何を約束しているのだろうか。それは「キリストを信頼することにより与えられる救いと永遠の生命についての全面的確信」である。
 

わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:38−39)

 
このみことばに語られている救いの確信を、福音は、キリストを信頼するものに約束している。
 救いとは、信仰によって義とされることであり(ピリピ3:8−9)、神との平和であり(ローマ5:1)、もはや罪と定められないことであり(ローマ8:1)、罪のゆるしであり(コロサイ1:13-14)、新しく生まれることであり(1ペテロ1:3)、神の子としての身分を与えられた、キリストとの共同の相続人となることであり(ガラテヤ3:26−4:7)、神の家族の一員に加えられることであり、ついには神の住まいとなることであり(エペソ2:19−22)、いのちをあたえられることである(1ヨハネ5:12−13)。神の福音はこれらすべてを、キリストだけに信頼する者に約束している。なお、これらの約束のほとんどは、神との新しい関係の構築であり、神から遠く離れていたものが、神のすぐ近くに置かれるという約束である。
 
D. 私たちは福音が生み出す変革を愛する
 
 パウロは福音について次のように語っている。
 

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。(ローマ1:16)

 
神の福音は神の力である。それは人と世界を変革する。福音が与える約束に信頼する者は、単に信仰を持つだけではない。その信仰は従順という形で現れていき、私たちの人生を必然的に変革する。このように、神の福音は、その人の生き方を新たなものへと造りかえていく力を持っている。信仰と従順を生み出す力を持っている。ですから、パウロは異邦人、すなわちすべての国民が信仰を持つだけではなく、「信仰の従順」へと至ることを目標とする宣教にたずさわっていたのである(ローマ1:5; 16:26)。それは、神の約束を信じたアブラハムと同じ姿である(ヘブライ11:8)。
 キリストへの信頼という信仰が必然的に従順を生み出すことは、数多くの聖書が証ししている。たとえば、パウロは、福音がわたしたちの生き方を造りかえることを次のように言っている。
 

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:11−14)

 
私たちの救いを成就したその同じ恵みは、私たちが主に従う倫理的な歩みをするように教える。たんに「倫理的に歩め」というものではない。キリストの再臨を念頭において生きるならば、その生き方は必然的に倫理的となる。さらに、イエスへの従順こそイエスに対する私たちの愛の試金石である(ヨハネ14:21)。そして、福音はこのような生き方を可能とする、変革の力である。