家政婦のミタ(2)

 昨日の続き。
 まず、水と火の比喩について。三田灯という名前は意義深い。彼女は「ともしび」である。そして、「ともしび」は、おぼれ死にそうになった。つまり、火が消えそうになった。しかし、父が自分のいのちを犠牲にすることによって、「ともしび」は生き残った。ところが、「ともしび」は義弟の暴走によって「放火による火事」を生み出してしまった。「ともしび」が暴走を招いてしまった。そして、皆川家を「ともしび」は放火によって殺そうとする。ところが、ろうそくの「ともしび」は幾度と消され、放火はできない。そして、不思議なことに、阿須田家の子どもたちが摑んでいる間、ろうそく「ともしび」は消えなかった(このシーンは不思議でたまらなかった)。そして、家を燃やす暴力的な火ではなく、「ともしび」として残った。これから、彼女は「ともしび」として、何かを照らすために生き残っている。
 次に、なぜ三田灯は阿須田家を救ったのか。それは、阿須田家の持っているもののすべてを失った灯の存在によって、阿須田家は自分たちの持っているものに気がついたからではないか。灯は夫を失い、子どもを失った。その結果、夫の家族を失った。ところが、阿須田家はどうだろうか。夫は存在し、子どもたちは存在する。妻の家族も未だに関わりを持ち続けているという意味で、失ってはいない。たしかに妻は失われたが、それ以外のものはすべて、いや灯以上にある。つまり、阿須田家が灯と出会うことによって、今あるもの(残っているもの)に気がつき、そして、今あるものの間の関係が回復することに努力したからこそ、阿須田家は回復した。
 最後に、物語における皆川家の役割。皆川家は阿須田家と三田家を結びつけるヒンジである。なぜならば、皆川家は三田家と同じ家族形態(夫婦と5歳の子ども)である。そして、妻の料理に関しては「対照的」という意味で密接に結びついている(三田家の妻の食事はおいしく、皆川家の妻の食事はおいしくない)。さらに、皆川家で起こっていることは、阿須田家で起こったことである。どちらも、夫が不倫をしていた。もちろん、阿須田家は離婚を切り出したが、皆川家はそれを切り出してはいない。このようにして、皆川家が阿須田家とも三田家とも共通点を持っているからこそ、第一話から第八話での阿須田家の再生の物語から第十話と第十一話の三田灯の再生の物語をつなぐヒンジの役割をしている。
 このストーリーの解析、きっとやりすぎ。脚本家はそこまで考えていないような気がする。でも、もしこれを考えてストーリーをつくっているのなら、かなりの理論家が脚本の背後にはいる。