ケープタウン決意表明(8)

 
7. 私たちは神の世界を愛する
 
 私たちが神の世界を愛するのは、神がこの世界に対していつくしみと恵みをもって向き合っていて下さるからである。
 

主はすべてのものに恵みを与え
造られたすべてのものを憐れんでくださいます。(詩篇145:9)

 
このことのゆえ、神の造られたすべてのもの(人間だけではない)を愛し、神の摂理と正義が被造物全体に行き廻ることを喜び、
 

この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。(コロサイ1:23、新改訳)

 
とあるように、すべての被造物とすべての国々にこの福音を宣べ伝え、
 

水が海を覆うように、大地は主の栄光の知識で満たされる。(ハバクク2:14)

 
となる日が来るのを待ち望んでいる。なお、ここで特に注目しておきたいのは、私たちが愛する対象は、人間に限定されるのではなく、神が創造されたあらゆるものであるという点である。そこには被造物があり、多くの民族と文化があり、貧しい人や抑圧された人がおり、他宗教の人や私たちを迫害する人々もいる。
 
A. 私たちは神の被造物である世界を愛する
 
 聖書は「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」(詩篇24:1)と高らかに宣言している。神を愛するゆえに、神に属する、神が所有するあらゆるものを私たちは愛し、世界のために喜んで行動する−−この地を守る。自然を見て、単に感動するのではなく、自然を神として崇め畏れるのでもない。
 コロサイ1:15−20は、キリストと被造物との関係を美しく描いている。
 

15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。17 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。18 また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。19 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、20 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

 
ここで言われている「すべて」とは「すべての造られたもの」であり、これらがキリストによって創造され、キリストによって支えられ、キリストによって神と和解される(救済される)と述べている。このことを大前提として考える時、地とそこに属する豊かな資源を「主のために責任をもって用いる」ことがキリスト者に求められている。被造物を保護する働きは、単なる「エコなこと」ではなく、キリストの支配の下にあるものを正しく私たちが治める福音に立った生き方である。言い換えるならば、地球資源の破壊、浪費、汚染に関与していること、消費至上主義という名の偶像崇拝に加担している現実に気がつき、悔い改める必要がある。そして、被造物を保護する働きは福音に基づく宣教のわざの一つであることを覚え、支援することが大切である。
 私たちが宣教する福音は、個人にとってののみならず、社会と被造物に対してのよい知らせである。個人、社会、被造物が罪のゆえに損なわれ、苦しんでいるからこそ、これらすべてが神のあがないの愛と宣教の対象である。だからこそ、神の民であるわれわれの宣教の一部である。
 
B. 私たちはもろもろの国と文化から成る世界を愛する
 
 世界には数多くの民族と文化がある。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」(使徒17:26)とあるように、民族的、文化的多様性は神がよしとされたもの、神の賜物である。しかし、神はその多様性が分断や対立に結びつくことを願ってはいない。むしろ、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12:3)という約束が成就すること、さらに
 

この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」(黙示録7:9−10)

 
と他民族から一つの神の民が生み出されることを願っておられる。
 文化には難しい問題が含まれている。そこには神のかたちの証拠としての肯定的な側面があると共に、サタンと罪という否定的な側面があるからだ。文化を全肯定することも、全否定することも間違っている。「批判的な識別」が求められる。その上で、「すべての文化の中に福音が体現され、埋め込まれ、内側から文化をあがない、その文化が神の栄光とキリストの光り輝く豊かさを示すようになるのを見ることを、私たちは切望する。あらゆる文化の富と栄光と輝きが、すべての罪をあがなわれ、聖められて、神の都に取り込まれ、新創造を豊かにするのを私たちは待ち望む」へと進む。文化は救済されつつ、その多様性が神の都と新創造を豊かにする可能性をもつものである。ある特定の人種や、ある特定の民族を絶対視する「人種差別」や「自民族中心主義」は間違っている。
 福音を告げ知らせるという観点から考える時、「すべての民族と文化」に福音を告げ知らせる必要がある点も忘れてはならない。残念ながら、福音をまだ一度も聞いたことのない民族が世界には依然と多数存在することを悔い改めをもって告白しつつ、現実を知り、そこへも福音を伝えることへと進むべきである。
 
C. 私たちは世界の貧しい人々と苦しんでいる人々を愛する
 
 主は社会的弱者を愛する神である。それは律法の中に明確に記されている。
 

あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。(申命記10:17−18)

 
これゆえに、王たち(詩篇72篇)や司法の指導的立場に任命されている人(申命記16:18−20)には社会的弱者へのあわれみと正しいさばきが求められている。さらに、必要を抱えた人たちへの実際的な愛と正義を、神の愛と正義を反映させつつ行う事は、旧約聖書新約聖書を問わず、一貫した命令である。
 

みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。(ヤコブ1:27)

 
 社会的弱者へのあわれみの行いを愛して行うだけでは、実は「貧しい人と苦しんでいる人を愛する」ことにはならない。この貧困と苦難の原因である虐げ、搾取、悪と不義を明るみに出し、それに対抗することを通して、正義を行うこともこの愛は要求する。神の愛はこのことを求めている。社会から取り残された人と抑圧された人のために団結し、支援することも重要な働きの一つである。そして、これは悪に対する霊的な戦いの次元にも属する。単なる人間的な知恵や努力によって戦える出来事ではない。むしろ、キリストの十字架と復活の勝利を通して、聖霊の力によって、絶えざる祈りによってでしか戦えない、強固な敵であることも覚えるべきである。
 
D. 私たちは自分を愛するように隣人を愛する
 
 主は寄留の他国人を愛するように求めておられる。
 

あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。(レビ19:34)

 
しかし、イエスご自身は、全く違う次元へと引き上げ、次のように言われている。
 

あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:43−44)

 
悪人も善人も愛する神の愛を反映する生き方こそが、神の民の歩みだからである。そして、キリストご自身もこの命令に服従し、模範を示されてきたことを忘れてはならない。
 つまり、私たちの「隣人」への愛は、信仰を同じにする仲間に対するものに限定されてはならない。そこには、他の信仰を持つ人、私たちを憎む人、私たちを中傷し、迫害する人、私たちを殺そうとする人さえも含まれる。暴力と殺人に対して、暴力によって対応するのではなく、自己犠牲によって応えることにより、暴力に勝利されたのがイエスご自身である(ルカ23:34)。だから、私たちは暴力的な手段をきっぱりと拒絶するべきである。復讐心をもって報復する誘惑をきっぱりと捨て去るべきである。
 

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマ12:17−21)

 
暴力による暴力という応答は、暴力という悪の連鎖を断ち切ることはできない。「善をもって悪に勝つ」時、悪の連鎖は断たれ、そこに新しいものが生み出される。
 しかし、これは、全くすべてをなすがままに任せることではない。立法者や国家の権威に対して、声を上げることも含まれている。正義が行われず、隣人が苦しんでいるならば、正義を求めて立ち上がって、声をあげることも大切である。
 
E. 私たちが愛さない世界
 
 神のよい被造物の世界は、しかし、罪と悪のゆえに神に反逆する世界へと落ちてしまっている現実も忘れてはならない。欲望、貪欲、うぬぼれ、世俗。この世にあるこのような現実をわれわれは愛さない。
 

世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。(1ヨハネ2:15−17)

 
残念ながら、わたしたちは愛すべきものを愛さず、愛してはならないものを愛してきた過去と現在がある。それが福音の宣教の信頼性を奪ってきた。その事実を悲しみをもって告白し、むしろ「神が愛されるように全世界を愛する」ことを改めて決意する。