ケープタウン決意表明(7)

6. 私たちは神の言葉を愛する
 
 私たちが愛する「神の言葉」とは、「旧新約聖書に書かれた神の言葉」である。私たちの神の言葉に対する態度は、聖書で一番長い詩篇に含まれている詩人の言葉と重なる。
 

わたしはあなたの戒めを愛し、それを楽しみとします。(詩篇119:47)
それゆえ、金にまさり純金にまさって、わたしはあなたの戒めを愛します。(119:127)
わたしはあなたの律法をどれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。(119:97)

 
これらの言葉から明らかなように、私たちが聖書を愛するのは、それが何よりも「私たちが愛する神」の言葉であるからだ(「あなたの〜」)。「A. 聖書が啓示するお方」で記されているように、「花嫁が夫の手紙を愛するように聖書を愛する」のであり、「神に対する愛の発露」として聖書を愛するのである。この順番を間違ってはいけない。
 
A. 聖書が啓示するお方
 
 「聖書は神の言葉である」ということは、私たちに「神とは誰か、神の性質、目的、そして行為」について、神みずからが示す(すなわち「啓示する」)内容を伝えてくれる書であることを指す。それは同時に、聖書がイエス・キリストの第一の(つまり、これ以上のもののない)証人であることを表すものであり、この書を読む時に、聖霊を通して、私たちはキリストに出会う。
 本来は旧約聖書について語られたことばであるが、聖書全体としても受けとめることのできる言葉はテモテへの第二の手紙3:16−17である。
 

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。

 
まず、聖書全体が、「神の霊の導きの下に」、すなわち「神の霊によって命を吹き込まれた書」である点である。聖書には神の直接的な介入が明確に刻まれている。次に、神の直接的な介入と共に聖書は「人間である著者を通して語られ」たものである。
 

なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。(2ペテロ1:21)

 
「神の言葉」であり、「神からの言葉」であると同時に、確かに「人のことば」でもある。そして、「人のことば」であるが、わたしたちはこの言葉を神の言葉として受け取る。聖書の言葉にはいつもこの緊張関係がある。
 
B. 聖書が語るストーリー
 
 それでは、聖書全体は何を語っているのだろうか。それは壮大で、普遍的なストーリーである。『せかいは新しくなる』(藤本四郎 絵、日本聖書協会、2011年)はこのストーリー(創造、堕落、歴史上の救済、新創造)を見事に描いており、このストーリーのクライマックスはキリストの十字架と復活である。
 旧新約聖書に書かれたこのストーリーは「神の宣教」のストーリーである。だからこそ、私たちが私たちの宣教を進めるために、このストーリーはわたしたちキリスト者がどのような存在であるかを教え(私たちは何者であるか)、進むべき道へと導き(何のためにここにいるのか)、神の手にある結末への確信と安心を与える(どこへ向かっているのか)。「神の救いの目的を成就する」ための力を神の言葉はもっている。だからこそ、この聖書を私たちは出来る限り可能な手段(文書、音声、映像など)を用いて、地上のすべての人々に伝えなければならない(文字を読むだけではなく、語りの文化の中にいる人にも)。あらゆる文化と言語の人々が聖書に触れ、聖書が語るこの普遍的なストーリーに耳を傾けることができるようにすることは私たちの務めである。
 
C. 聖書が教える真理
 
 聖書全体は、「最高にして唯一の権威」である。そして、「神が私たちに伝えようとすることのすべて」、すなわち真理を教えている。真理とは、「真実で信頼に足りるもの」であり、「服従」すべきものであり、決して裏切ることのないものである。「聖書は書かれた神の言葉の最終形であり、これ以外のいかなる啓示もこれを越えない」(もちろん、真理は数多くあるが、どれも最終形ではなく、聖書を越えることはない)。
 しかし、絶対的真理の存在も、それを知るうることさえも否定される相対主義の世界に私たちは生きている。「あなたにとっては真理でも、わたしにとってはそうではない」と言われてしまう世界である。その中で、聖書が真理を教えることは否定される。だからこそ、聖書の真理を擁護する働き(弁証法という)が大切であるし、聖書の真理をそれぞれの文化の中で「新鮮に語る」(同じ真理を、あたかも初めて聞くかのように聞かせ得る語り口)ために、聖霊が働いておられることを覚えるべきである。これまでの方法だけに凝り固まるのではなく、真理を明確に、新鮮に、語るための努力をたゆまなく行う必要がある。
 
D. 聖書の要求する生き方
 
 「聖書全体が最高にして唯一の権威である」ということは、それが「私たちの信仰と行動を支配するもの」であり、「これに服従する」ことが求められていることを意味する。2テモテ3:16が語っているように、「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益」である。従って、申命記30:14の言葉、
 

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

 
にあるように、聞くだけではなく、行う者、本当の意味で「聞く(つまり従う)」者となるように招かれている。そして、聖書が要求する生き方こそ、キリスト者共同体の目印、特徴である。具体的には決意表明に書かれているように、「正義、思いやり、謙遜、潔白、誠実、性的純潔、気前よさ、親切、自己否定、もてなしの心、平和をつくり出すこと、報復を求めないこと、良い行いをすること、赦し、喜び、満ち足りること、そして愛」である。
 
 聖書を愛する人は多くいる。しかし、聖書が語る生き方を愛することなしに、聖書を愛すると主張してはいないだろうか。聖書が私たちに与える「イエスの軛」である(マタイ11:29−30)。この「負いやすい軛、軽い荷」を負うことなしに、また、大きな犠牲を払いつつ、キリストを通して神に実質的に服従することなしに、「神の言葉である聖書を愛する」と語る事はできない。聖書的な生き方なしに、聖書的な宣教はありえないからだ。次のマニラ宣言(1989年の第二回世界宣教会議で採択されたもの)のことば通りに歩ませていただきたい。

生まれ変わった生活そのもの以上に、雄弁に福音を伝えるものはない。また、言行不一致の証しほど信用を落すものはない。私たちはキリストの福音にふさわしく生きるように召されており、その香りを放つようにとすら召されているのである。聖い生活によって、福音の美しさは輝きを増すのである。