ケープタウン決意表明(6)

5. わたしたちは聖霊なる神を愛する
 
 ケープタウン決意表明において何度も繰り返されている事であるが、聖書が語る宣教とは神の宣教であり、教会はその神の宣教に参画する存在である。そして、この教会の宣教にいのちと力を与え、神の宣教を可能とするのは、父と子から遣わされた宣教者である聖霊である。つまり、宣教者である聖霊が今、働いておられるからこそ、教会は神の宣教に参画することができる。だから、わたしたちの証しも、説教も、宣教も、人生も、聖霊の介入なしには無意味である。無益、むなしい、人間の努力、魅力に欠ける。神の福音のすばらしさをわたしたちがその生涯においてあざやかに映し、その宣教のわざをおこなうのは、まさに宣教者である聖霊が働かれているということのゆえである。
 ここでは、聖書全体のストーリーを動かしている聖霊がどのように描かれているかを聖書全体から見直していく。
 
A. 旧約聖書における聖霊
 
 聖霊はまず、天地創造のその場にあり(創世記1:1−2)、人間を創造し、その人間を生かす方である。
 

御顔を隠されれば彼らは恐れ、息吹を取り上げられれば彼らは息絶え、元の塵に返る。あなたは御自分の息を送って彼らを創造し、地の面を新たにされる。(詩篇103:29−30)

 
意外と忘れられることだが、幕屋という主の臨在の場を作成するために必要な技術とそれを教える能力は神が聖霊によって与えたものである(出エジプト35:30−36:1)。もちろん、士師記に表されている解放のわざのための働き人は神の霊の感動によってそのわざを行っている(士師3:10[オトニエル]、6:34[ギデオン]、13:25[サムソン])。また、律法に従って民を裁くというモーセの働きの一端を担う七十人の長老にも聖霊は臨んでいる(民数11:16−17)。さらに、出エジプトのリーダーであるモーセのうちにも聖霊はあり(イザヤ63:11)、荒れ野を行く民の間にあって彼らに憩いを与えたのも聖霊である(イザヤ63:14)。
 聖霊は確かに預言者において一番あざやかにその働きを表している。神は聖霊によって預言者を通して民に働かれた。
 

しかし、わたしは力と主の霊、正義と勇気に満ち、ヤコブに咎を、イスラエルに罪を告げる。(ミカ3:8)

長い年月、あなたは忍耐し、あなたの霊を送り、預言者によって勧められたが、彼らは耳を貸さなかったので、諸国の民の手に彼らを渡された。(ネヘミヤ9:30)

 
さらに神の聖霊によって神のことばを語る預言者は、この聖霊に満ちた王(イザヤ11:1−5)、しもべと民(42:1−7)を待ち望んでいる。そして、神の福音は、この聖霊によって油を注がれて任命を受けた働き人によって宣言されていく(61:1−3)。そして、働き人だけではない、民の上に聖霊の存在があざやかになる時、新しい民が誕生し、平和と安息が到来する。つまり、神の計画が実現に至るのである。
 

ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる。そのとき、荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものはとこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう。(32:15−18)

 
エゼキエルの預言においても聖霊は民に新しい心を与えて変革を起こし(エゼキエル36:25−27)、死んだ民を生き返らせる(37:1−14)。そして、ヨエルの預言にあるように、終わりの日、あらゆる民に聖霊はそそがれ、来るべき時代が到来し、新しいいのちに満ちるのである(3:1−5[新共同訳]、2:28−32[その他])。このようにして預言者を通して、神は神の臨在が民の間に実現し、新しい神の民によってその宣教が実現していく時代を期待している。
 
B. 新約聖書における聖霊
 
 ペンテコステの記事(使徒2章)にあるように、預言者とイエスによって約束された聖霊が弟子たちの上に注がれ、新しい時代が到来した。「“霊”によって聖なる者とされ」(1ペテロ1:2)とあるように、聖霊によって神のものとされたキリスト者たちによって何よりも大切なのは人格である。聖霊の実が結ばせられ、なによりも「愛」という他者の為の自己犠牲という献身が実現することが宣教には必須である。
 

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。(ガラテヤ5:22−23)

 
聖霊は教会に一致を与え、そこを聖霊の賜物で満たす(エペソ4:3−6; 11-12; ローマ12:3−8; 1コリント12:4−11)。「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」(1コリント14:1)とあるように、これらの賜物を追い求めることは必要である。しかし、それらが「愛」という文脈の中でなされること抜きに求められることは危険である。
 イエスによってわたしたちは宣教に遣わされていく。しかし、その時、イエスは「聖霊を受けよ」と語られ、聖霊と共に宣教のわざへとわたしたちを送り出す(ヨハネ20:21−22)。そして、聖霊によって真理を見分け(14:16−17)、聖霊はわたしたちを教え(16:12−15)、祈りらせ(ローマ12:3−8)、霊的な戦いにおける武器を与える(エペソ6:10−18)。そして、わたしたちの礼拝を導き、そこにおられ(ヨハネ4:23−24)、祈りと賛美を導く(1コリント14:13−17)。さらに「イエスは主である」との信仰告白をさせるのは聖霊である(1コリント12:3)。もちろん、イエスの弟子たちはその宣教のわざの中で迫害を経験し、裁判の席に立たせられることもあるだろう。しかし、その時に弟子たちを強め、慰めるのは聖霊である(マタイ10:17−20)。
 
C. 聖霊の働き
 
 このようにして新約聖書に描かれている聖霊の姿を概観する時、教会を通してなされる神の宣教は聖霊の臨在と導きと力がなければ、全く無意味であり、実りがないことがわかる。それは宣教のあらゆる側面において真実であり、ケープタウン決意表明は、教会が参画する神の宣教のあらゆる分野をあげている。
 そして、聖霊の臨在と導きと力による神の宣教のわざは初代教会においてみられ、今日でもおなじことが言える。
 
 今日における宣教において、聖霊の人格とわざと力は欠くことができない。だから、全世界のキリスト教会がこの真理に覚醒し、この真理を現実のものとすることが求められている。
 その一方で、「聖霊の名による乱用」も存在する。聖霊の名を語り行われ、その著しさのゆえに賞賛されることもあろう。しかし、自分自身の拡大と、不正で利己的な人身操作がその背後にはあり、神を恐れない行動である。そのようなにせ者を見抜くための識別力を身につけるために、聖書の学びを通して、福音を理解することが今後も求められている。