ヨブ記から考える親子関係

 昨日、ユース・リーダーズセミナーの礼拝で話した内容です。前回のヨブ記と、中心的なメッセージは同じですが、「親としてのヨブ」にのみ焦点をあてたものです。お楽しみに。
 
Introduction
 
 子どもが与えられれば、法律上、わたしたちは自動的に親となります。しかし、親子関係の関わりの中で「親となる」ことは、そんな簡単なことではありません。長い長いプロセスです。わたしにも中1の娘と小5の息子がいますが、今も、「親となる」ことを学んでいるところです。子育てが実は親育てである、と言われるくらい、「親となる」ことは親となる人の人格的成熟を意味します。ですから、子育てをする時、実は一番問われるのは、「親であるあなたは本当に親として成熟していますか」という問いかけです。
 聖書の中には数多くの「親」が登場します。今回の礼拝では、ヨブ記を取り上げます。それは、ヨブこそが本当の意味で「親になっていった人」であるからです。彼の親としての成熟とはどのような面での成熟なのでしょうか。そして、何がきっかけで、ヨブは親になっていったのでしょうか。これらの点を中心にヨブ記をざっと見ていきましょう。
 
I. ヨブと子どもたちの関わり
 
 「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」(1:1)ヨブには、七人の息子と三人の娘がいた(1:2)と書かれています。そして、この十人の子どもたちは、大変仲がよかったようです。だからでしょう、彼らは互いの家を往き来し合い、それぞれの家で日と決めて祝宴を開くごとに全員であつまって、共に飲み食いしていました(1:4)。もちろん、三人の姉妹たちもそこに呼ばれ、十人とその家族は一緒に楽しい時を過ごしていたのでしょう。彼らの父であるヨブは、この祝宴をどのように見ていたのでしょうか。彼がこの祝宴に参加したか、しなかったかは書かれていません。この祝宴には反対はしていなかったようです。ただ、七人の息子たちの家を祝宴が一巡りする度に、ヨブは子どもたちを聖別していたと書かれています(1:5)。つまり、ヨブは朝早く起き、息子たちひとりひとりのために全焼のいけにえを献げていたのです。なぜこんなことを祝宴が一巡するごとに行っていたのでしょうか。それは、ヨブが「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」(1:5)と恐れていたからです。いつから順送りの祝宴が行われていたのかは記されてはいませんが、「ヨブはいつもこのようにしていた」(1:5)とありますから、このヨブの行動は習慣化していたのでしょう。
 このようなヨブの行動を見て、どのように感じられるでしょうか。たしかに、自分の子どもたちのために神に全焼のいけにえを献げるヨブの行動は、「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」(1:1)ヨブの敬虔(piety)の現れと捉えることはできます。それとともに、「ヨブは自分の子どもに対して余りに過保護ではないか」と感じられる人もこの中におられるかも知れません。神を呪ったならば、呪った本人がその責任を負う、と考えるのが普通ではないでしょうか。危険性を子どもたちが感じているならば、自分たちで行えばいいのです。ところが、親であるヨブが先回りして「なんとか失敗しないように」と過度に子どもたち(といっても成人でしょう)を守っているように思えます。
 なお、ヨブ自身が子どもと共に祝宴を楽しんでいたとは書かれていません。一緒に祝宴にいたならば、実際に何が行われていたかわかっていたでしょう。「あるいは罪を犯し、心の中で神を呪ったかも知れない」と心配する必要もないでしょう。書かれていないことから類推するのは不適切かもしれませんが、自らの正しさのゆえに、ヨブはそのような場を避けていたと考えられます。まあ、子どもの立場に立ってみれば、ヨブみたいな父がいつも祝宴に来ていたら、うっとうしくて仕方がなかったでしょうが。
 ところが、この子どもたちを一度に失い、一連の苦しみを経験し、友人たちと議論し、ついには神を見、失った者の二倍を与えられ、七人の息子と三人の娘を再度与えられたヨブは、全く異なった種類の父親となっています。まず、娘の名前があえて記されています:エミマ、ケツィア、ケレン・ハプク(42:14)。それぞれ、「鳩」「弓形」「小さなお化粧箱」という意味です。そして、三人娘が美しかったと記されており、ただ美しかったという理由で、七人の兄たちと同様に、ヨブは彼らに相続地を与えています(42:15)。旧約聖書において娘が嗣業を受け取るのは、男兄弟がいない場合の例外規定でした(民数記36章)。しかし、ヨブは、七人の息子がいるにもかかわらず、美しいからという理由で、三人の娘に相続地を分け与える親となりました。ヨブ記1章で描かれているヨブと、同一人物とは思えない行動です。過保護の父親から気前のいい父親に変わっているからです。
 このヨブの変化を鋭く見抜いているのは、William Blakeという18世紀後半の有名な詩人、説教者、版画家です。彼はヨブ記に関する挿絵を描きました。それらがインターネット上に置かれています(http://www.artbible.info/art/work/william-blake)。まず、一番最初にヨブが家族とともにいる絵を見てください(http://www.artbible.info/art/large/627.html)。彼らはひざまずいて、熱心に祈っています。また、すべての羊は寝ています。楽器が描かれていますが、すべて木にかけられており、誰一人として演奏していません。ところが、一番最後にもヨブが家族とともにいる絵があるのですが、それは最初の絵と大きく違います(http://www.artbible.info/art/large/647.html)。なぜならば、ヨブはその家族と共に立ち上がり、かつては手にさえ取っていなかった楽器を手に取り、それを一緒になって演奏しているからです。また、羊たちもこの音のゆえでしょうか、目をさましています。「敬虔で、正しいけれども、おもしろみのないヨブ」が、「自由で喜びに満ちているヨブ」に変わっています。
 何がヨブをここまで変えたのでしょうか。当然、彼が出会った理由のわからない苦難であり、友人との議論でしょう。しかし、何よりも大きいのは、ヨブが神の顕現に直面し、その結果、回心したからです。

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。(42:5−6)

ヨブは主を見、それゆえに回心しました。それでは一体、主がどのような方であるのを見たのでしょうか。もうすこしテキストで語られている内容に絞ってみるならば、主がご自身の創造された被造物(当然そこにはヨブも含まれますが)とどのように関わっておられることをヨブは見たのでしょうか。
 
II. 神とヨブ、神と被造物
 
 神の姿を見るために、まず、1章に戻ってみましょう。天の神の議会を舞台にした場面(1:6−12)において、ヨブを巡って訴える者(つまり、追訴者、検察官の働きといえるでしょう)サタンは、ヨブについて自慢する主に次のように言っています。

あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。(1:10)

主はヨブとその家、その所有物を「垣を巡らして」守っていると彼は断言しています。先ほど述べたヨブ同様に、主は過保護である、ヨブを守って、繁栄を与えているとサタンは考えているのです。そして、「しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」(1:11)とサタンは神に提案しています。つまり、「主よ、ヨブに対する過保護をやめなさい」と進言しているのです。
 サタンから過保護の親であると指摘された主は、ヨブのすべての所有物を奪う許可をサタンに与え(1:12)、自らがヨブに対して過保護な親ではないことを示します。その結果、ヨブの所有、家畜、しもべ、子ども(子どもも一種の所有物と理解されています)が奪われてしまいした(1:13−19)。主が、その保護の手をゆるめた時、ヨブの所有物は一切、奪われてしまいました。さらに、再度の天上の神の議会での対話では、サタンは自らの言葉をエスカレートさせ、ヨブのからだを撃つことを進言します(2:5)。ここでも主はサタンに許可を与えます。ただし、「彼のいのちには触れるな」(2:6)と越えてはならない一線を引いていることは忘れてはいけません。主はヨブに対して過保護な親ではありません。しかし、越えてはならない一線だけは守っています。
 このように、主は越えてはならない一線を設定し、それは越えないように守られる方です。これと全く同じ主の姿は、主がヨブに自らを現し、ヨブに直接語りかけたところにも記されています。たとえば、38:8−11を見てください。

海がふき出て、胎内から流れ出たとき、だれが戸でこれを閉じ込めたか。
そのとき、わたしは雲をその着物とし、黒雲をそのむつきとした。
わたしは、これをくぎって境を定め、かんぬきと戸を設けて、
言った。
 「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。
 あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と。

津波」を思い浮かべていただければわかるでしょう。海は一つ間違えば世界中を混乱の中に陥れる力をもっています。神は、海がある程度の自由をもって地上との境界線を越えることはゆるしてはいますが、越えてはいけない限界も定めておられます。「ここまでは来てもよい」と境界線内での自由は与えておられるのです。逆の立場から言うならば、どれだけのわざわいがヨブに襲いかかろうとも、彼のいのちを取るという意味で「一線を越える」ことを主はゆるされていないのです。ですから、主は、あらゆる自由を奪い取ったり、先回りしてあらゆる危険を除き去る過保護な親ではなく、越えてはならない一線を定めつつも、それを越えない限りは自由にさせる親に例えられるのです。
 さらに、主は被造物に対して効率主義で関わる事はせず、むしろ無駄だと思えるような行動をあえてされる方です。「放蕩息子」は「無駄遣いをした息子」を意味しますが、神は被造物から見るならば、「放蕩おやじ」と言うことが可能でしょう。たとえば、38:26−27を見てください。

人のいない地にも、人間のいない荒野にも、雨を降らせ、
荒れ果てた廃墟の地を満ち足らせ、それに若草を生やすのか。

聖書の世界では、水ほど貴重な資源はありません。水が生死を決定する要因であり、一滴の水さえも無駄にできないような世界です。そのような世界に生きる民にとって、人間のいない荒野に雨を降らす行為ほど無駄なことはありません。人が住み、農耕を行う地にだけに雨が降ることほど効率的なことはないでしょう。だから人は神にそのことを求めます。主は無駄に雨を降らせることを自慢しています。被造物と関わる場合、無駄を徹底的に省く効率主義とは全く対局に主はおられます。この主の姿は、すべてのものを二倍にしてヨブに返した所にも見いだされるでしょう。
 最後に、主は被造物を徹底的に自慢される方です。たとえば、野やぎについての39:1−4を見てください。

あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。
あなたはこれらがはらんでいる月を数えることができるか。それらが子を産む時を知っているか。
それらは身をかがめて子を産み落とし、その胎児を放り出す。
その子らは強くなり、野原で大きくなると、出て行って、もとの所には帰らない。

野やぎや雌鹿が子を産むことがどれほど不思議であるかを語った直後に、親として全く子どもを顧みない姿を平然と並べています。さらに、そうであっても子は強く育ち、自立していくのです。さらに、だちょうの記述(39:13−18)をみてみましょう。

だちょうの翼は誇らしげにはばたく。しかし、それらはこうのとりの羽と羽毛であろうか。
だちょうは卵を土に置き去りにし、これを砂で暖めさせ、
 足がそれをつぶすことも、野の獣がこれを踏みつけることも忘れている。
だちょうは自分の子を自分のものでないかのように荒く扱い、
 その産みの苦しみがむだになることも気にしない。
神がこれに知恵を忘れさせ、悟りをこれに授けなかったからだ。
それが高くとびはねるとき、馬とその乗り手をあざ笑う。

だちょうに知恵が欠けることを正直に述べつつも、その舌の乾かないうちにその跳躍力がはるかにすぐれていることを主は語っています。実は、このような記述が繰り返されているのです。主がこれらの動物たちを自慢しているのか、欠点を指摘しているのか、混乱してくるほどです。主がこれらの動物たちのいわゆる長所も短所も、どちらも自慢しておられると考えるのが適切でしょう。創造されたものすべてを、その特別な能力も、その愚かさも、一緒にして心から喜んでいるまさに「親ばか」の神の姿を見ます。何という自由な神でしょうか。
 このところで見せる被造物に対する「親ばか」と言えるほどの神の態度は、38〜41章にとどまりません。1〜2章で主がヨブについて語っていることばはどうだったでしょうか。

おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。(1:8)

おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。(2:3)

ヨブに関しても、主は最大の賛辞をあげています。ヨブも主の自慢の被造物なのです。ヨブの「正しい歩み」がすばらしいとも認めているのです。
 神はある意味で被造物にとっては「親」に当たる存在です。そのような神が、(1)境界線は定めるが、それを越えない限りの自由を被造物に与える、(2)効率を第一に求めるのではなく、多くの人が無駄と考えることさえも喜んで被造物に対して行う、(3)被造物のもつ特別な能力も、愚かさも、どちらも均しく喜び、自慢する、ことがわかります。ヨブはこのような主の姿を目の当たりにしました。そして、ヨブは、それゆえに、過保護で潔癖症の父親から、おおらかで気前のいいおやじに変わっているのです。
 
III. 父なる神と似た者へと変えられる
 
 ヨブの上になにが起こったのでしょうか。ヨブは神がどのように被造物に関わるのかを目の当たりにして回心し、神のような親へと変えられていったのです。神がおおらかで気前のいいおやじだから、ヨブもそのようになっていったのです。
 はたして、わたしたちはどのような親でしょうか。どのように子に関わっているでしょうか。自分自身の姿を振り返る時、神に出会う前のヨブのように子に関わっているのではないか、と問われます。過保護で潔癖症の親となってはいないでしょうか。「これが子どもの最善である」と決め、レールをすべて引いて、その上を歩かせようとする。あらゆる所において子どもに完璧を求め、それができないのなら、陰で色々と手を引く(夏休みの宿題の工作や研究、どれだけ親がしているのでしょうか)。お金の事や時間のことばかりを気にし、すぐに目標へと進めるような最短距離ばかりを求めていく。いわゆる「よくできる子」と自分の子どもを比べ、そのために子どもの欠点ばかりが気になり、それをなくそう、なくそうとあくせくする。時には、その全く逆もあるのではないでしょうか。保護することもなく、正邪も告げない。一切制限を与えず、子どもの求めることをすべて実現する。子どもは子ども、自分は自分と関知せず、自分のことだけ一生懸命になる。子どもの得手不得手など、一切、気にしない。このどちらも適切ではありません。
 しかし、ヨブ記から教えられるのは、私たちは主がどのような方であるかを見ることによって、つまり私たちの歩みの中で主の私たちの親である姿を経験することによって、父なる神に似た親になっていくことが大切である、ということです。してはいけないこと、するべきこと、これらについてのある一定の境界線を明確に教えつつも、それを越えない限りは子どもの自由に委ねる。時間やお金の事ばかり考えて、あらゆることを効率よく、無駄なく、そつなくやることばかりを考えるのではなく、遠回りも一休みも無駄も大切なんだ、と考えて、関わっていく。放蕩息子の父親のように、無駄にも思えるような子牛を一頭、ほふる。子どものいいところも悪いところもちゃんと認識した上で、そんな長所短所をもっている子どもをこころから自慢する。アメリカにいる頃に、自分の妻を「my beautiful wife」、自分の子どもを「my wonderful children」と、本気かどうかわかりませんが、呼んでいた人たちに出会いました。「愚妻、愚息」と呼ぶのが当たり前の日本文化の中で、謙遜という美徳がどこかで劣等感に変わってはいないでしょうか。
 現在のわたしたちの姿が、ヨブ記から見る親のあるべき姿と違っているでしょう。そして、親が親となるためには、時としてヨブのような苦難を経験する必要もあるでしょう。しかし、苦しみ、特に理由が全くないのにわたしたちが直面している苦しみは、わたしたちが親となるために神が与えた成熟の手段である可能性を忘れてはいけません。苦しみを通して「厳粛に裁く完璧主義者」の神ではなく、おおらかで気前のいいおやじ」である神を見る、このことを経験していく時、主を目の当たりにする時、わたしたちはヨブのように親として成熟していくのではないでしょうか。