苦しみを通して考えるキリスト者の生き方〜ヨブ記に向き合う(2)

 
II. 解決篇
 
 昨晩、「苦しみを通して考えるキリスト者の生き方」(問題篇)をお話ししました。ヨブ記を1章から31章までを駆け足で学び、その中から、「なぜ理由のない苦しみに出会うのか」という疑問は答えるのはむずかしいことを話してきました。それは、私たちが世界(天上も含めて)で起こっていることwのすべてを知ることができないからです。むしろ、「理由のない苦しみを通して何が教えられるのか」という問題に焦点を当てるべきであることが示唆されてきました。昨日の話の中で、思い出していただきたいこととして、いくつかをあげておきましょう。
 まず、繁栄や祝福はあたりまえでない、ということ。次に、苦しみとはその人の人格の本質が点検、吟味される場であるということ。三つ目に、わたしたちの苦しみを通して、神が人を含めた被造物とどのように向き合われるのかを知ることができるということ。四つ目に、地上のわたしたちが「苦しみの理由」を議論した時、時には鋭い洞察力をもって見通すことがあっても、それは完璧なものではありえない、ということ。そして、最後に苦しみを通してわたしたちは、「神をおそれる」「悪から離れる」ということがどういうことであるのか、「知恵」とはなんであるのか、これらの疑問に対ししてこれまでとは違う、新鮮な目で見直すべきであるということ。これらの五つのポイントは、これからお話しする解決篇において、大切な位置を占めるようになります。そのことを覚えつつ、解決篇をお聞きください。
 解決篇では、32章から突然登場するエリフという人のことばを簡単に見直した後、嵐の中から現れる神のことばについて考えて行きます。
 
神の顕現を備えるエリフ
 
 ヨブ記を読む中で、突然のエリフの登場は読者を困惑させます。彼の意見は友人たちの意見の焼き直しなのか、それとも何らかの新たなはじまりなのか。ヘブル語で「彼は私の神」という名をもつエリフの語りは、どうも38章からはじまる神の顕現への道を備えていると思えてなりません。
 エリフの語りは先ほどあげた問題篇で提示された五つのポイントのうちの二つについて、新たな光を当てています。まず、「知恵」「神をおそれる」こととはなんであるかという点。若いエリフは、ヨブの友人たちが自分よりも年長者であったので、ヨブに対して者を言うことを控えていました(32:4, 6-7)。しかし、「全能者の息が人に悟りを与える」(32:8)という確信に立ち、知恵の深さは年齢だけによるものではない(32:9)と信じて、語り始めています。彼はヨブとその友人たちが語ってきた伝統的な知恵を捨て去ってはいませんが、神だけが知っておられる知恵があることは彼は主張しています。そして、この特別な知恵を与えられているエリフ自身のことばは、年長者たちが語ってきた伝統的な知恵と異なると示唆されています。固定化され、教理とまでなってしまったような伝統的な知恵の本質的な変化がここから始まるのです。しかし、最後には、「神をおそれること」の重要さを訴えている(37:24)ことから考えて、知恵を表すことばそのものが変化するとはエリフは言ってはいません。神の顕現を通して、新しい意味での「神をおそれること」を体得する必要があると彼は訴えているのです。
 この知恵の新しい理解が生み出されるきっかけは、問題篇で提示された五つのポイントのうちの「神が人や被造物とどう向き合われているのか」というポイントと密接に関わっています。神理解が変化するからこそ、当然、「神をおそれる」ことである「知恵」も大きく変化するからです。ですから、エリフは、世界の王である神ご自身が、悪を行わず(34:10)、偏り見ることもなく(34:19)一方で、「神は、・・・私たちの知りえない大きな事をされる」(37:5)と言い切るのです。人間が知りえない、神のなさる大きなことに気がつく時、つまり、人間が規定してきた範疇をたやすく超える神の「人格」が新しくヨブに知らされる時、知恵の本質的転換が起こるのです。神は機械的に「正しい者に祝福を与え、悪しき者を裁く」という原則に則って行動する存在ではないからです。とはいえ、エリフ自身は、神が行う、人の知りえない大きなこととは何であるのか、語ってはいません。それは、38章以降の神のヨブに対する答えを待たねばならないのです。
 
神の答え
 
 そしてついに嵐の中から主が答えます(38:1)。名探偵登場、といってもいいかもしれません。しかし、主という名探偵は、素直にヨブや友人たちの疑問に答えてはくれません。天の議会において何が起こったかなど、ひと言も記されていないからです。むしろ、神が造られた世界の姿を示し、神がこの世界にどのように関わり続けておられるのかを示すことによって、特に「あなたは〜したことはあるか」と問いかけ、ヨブに「わたしは〜したことはない」としか答えるすべがない状況に追い込むことによって、ヨブの無知を指摘し、ヨブやその友人たちの考えや生き方を越えた神のわざを示しています。そして、神の目から見た新たな世界の秩序を述べることによって、ヨブが3章で投げかけた世界の秩序にかんするヨブの疑問に答えるのです。
 それでは、神はどのような答えをヨブに与えているのでしょうか。この世界をどのような秩序をもって神は治めておられるのでしょうか。大きく、二つのポイントを挙げておきます。
 まず、神は被造物の上におこるあらゆる出来事に直接的に介入される方ではなく、むしろ一定の境界線は定められるが、その中にある限りはある程度の自由を与えられる、と言う点。ここでのポイントは「直接的でない」ということと「境界線」ということです。あらゆる出来事はすべて直接的に「神のわざ」ではないと言っています。被造物それぞれが自ら、時には意志的に、時には無意識に、行動し、その結果、いろいろなことが起こっているのです。しかし、神がこの世界に関わっておられない、無関心というわけではないのです。越えてはならない境界線を神は決めています。しかし、それを越えない限りにおいて、被造物の自由にさせているのです。たとえば、38:8−11を見てください。

海がふき出て、胎内から流れ出たとき、だれが戸でこれを閉じ込めたか。
そのとき、わたしは雲をその着物とし、黒雲をそのむつきとした。
わたしは、これをくぎって境を定め、かんぬきと戸を設けて、
言った。
 「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。
  あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と。

津波」を思い浮かべていただければわかるでしょう。海は一つ間違えば世界中を混乱の中に陥れる力をもっています。それに対して、神は境界線を設け、越えてはいけない限界を定めておられるのです。その一方で、海のあらゆる自由を奪っているわけではありません。「ここまでは来てもよい」と境界線内での自由は与えておられるのです。主権を持っておられますが、自由を与えてもおられるのです。
 この神の姿から思い浮かべられる出来事はなんでしょうか。それは、サタンとの会話において、ヨブのいのちが取り去られないように境を定め、守られる一方で、境界線内ではサタンの自由に任せた出来事です(2:8)。これによって、ヨブは所有物に加えて、肉体的な健康を奪われてしまいました。しかし、いのちは守られたのです。ヨブを「境界線内での自由な取り扱い」に任せたのです。ところが、ヨブはそのことには気がつかず、自らのいのちまでも奪われることを願っていました。ヨブは神の「人格」について、明確に誤解していたのです。
 最初にあげた五つのポイントの一つ目にあったように、繁栄と祝福は当たり前ではありません。わたしたちは、神が定めた境界線の中で起こる限り、ヨブのような苦しみにあいます。理由のわからない苦しみは、いつでも起こりうるのです。神は決して「過保護」ではありません。ある程度の限界の範囲内とはいえ、苦しみや危険と背中合わせにヨブを、そしてわたしたちをおいています。ところが、わざわいが起こらず、今日守られているのは、神から与えられた幸い、守りのゆえです。不思議な神の守りがあるからこそ、今、ここにあるのです。
 現代日本に生きる私たちは、経済的繁栄、安全の保証、医療の発達などによって、「繁栄と祝福が当たり前である」と誤解しています。そして、その誤解が、逆に、危険に対しての油断を生み、時として「想定外」ということばを使って自分たちの誤解をごまかすのです。神が定められた境界線はあります。しかし、繁栄と祝福は当たり前ではありません。東日本大震災を始めとする「理由のわからないわざわい」は、わたしたちにこの事実を思い起こさせてくれるはずです。「繁栄と祝福が当たり前である」という発想から自由にならねばなりません。
 二つ目の答えは、「神は、人間には無駄と思えるような行動をあえてとり、愚かと思えるような存在を喜び、自慢する」という点。神は効率主義とは無縁な存在であり、エリート尊重主義者ではありません。むしろ、無駄遣い(放蕩)を喜んで行う、放蕩息子ならぬ、放蕩おやじなのです。そして、被造物に対しては徹底した「親ばか」なのです。たとえば、38:26−27を見てください。

人のいない地にも、人間のいない荒野にも、雨を降らせ、
荒れ果てた廃墟の地を満ち足らせ、それに若草を生やすのか。

水こそが生死を決定する要因であり、一滴の水さえも無駄にできないような世界に生きる民にとって、人間のいない荒野に雨を降らす行為ほど無駄なことはありません。効率を考えた時、人が住み、農耕を行う地にだけに雨が降ればいいでしょう。神にそのことを求めるでしょう。しかし、このテキストを読むと、主は無駄に雨を降らせることを自慢しているように思えてきます。「恵み」という神のわざは、よく考えれば神の最大の無駄遣いなのです。無駄遣いとわかっていても、神はそれを行われるのです。
 更に、やぎの子の誕生の不思議とその子の親への無情(39:1-4)、命令を聞かないが自由に生きている野ろば(39:5-12)、知恵を全く持っていないが馬よりも早く走るだちょう(39:13-18)への神の態度にも注目すべきです。たとえば、野やぎについての39:1−4。

あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。
あなたはこれらがはらんでいる月を数えることができるか。それらが子を産む時を知っているか。
それらは身をかがめて子を産み落とし、その胎児を放り出す。
その子らは強くなり、野原で大きくなると、出て行って、もとの所には帰らない。

野やぎや雌鹿が子を産むことの不思議と親として全く子どもを顧みない姿が平然と並べられている。そうであっても子は強く育ち、自立していく。さらに、だちょうの記述(39:13−18)。

だちょうの翼は誇らしげにはばたく。しかし、それらはこうのとりの羽と羽毛であろうか。
だちょうは卵を土に置き去りにし、これを砂で暖めさせ、
足がそれをつぶすことも、野の獣がこれを踏みつけることも忘れている。
だちょうは自分の子を自分のものでないかのように荒く扱い、
その産みの苦しみがむだになることも気にしない。
神がこれに知恵を忘れさせ、悟りをこれに授けなかったからだ。
それが高くとびはねるとき、馬とその乗り手をあざ笑う。

だちょうに知恵が欠けることを正直に述べつつも、その舌の乾かないうちにその跳躍力を神は述べています。このような記述が繰り返されていると、主がこれらの動物たちを自慢しているのか、欠点を指摘しているのか、混乱してきます。いや、正確には、主はこれらの動物たちのいわゆる長所も短所も、どちらも自慢しておられるのです。長所だけをあげてだれかに自慢し、短所をあげてはその人を責めるような人間の生き方とは全く違った神の「人格」をここで垣間見ます。役に立つ、役に立たない、という観点からではなく、創造されたものすべてを、その特別な能力も、その愚かさも、一緒にして心から喜んでいるまさに「親ばか」の神の姿を見ます。何という自由な神でしょうか。もちろん、人々が一般的にほめるであろう馬とタカを述べる時、彼らに特別な能力を与えられたのは自分であると述べています(39:19-30)。
 被造物に対する神の自慢話は、神話上の怪物であるベヘモト(新改訳では「河馬」)やレビヤタンに至ってはより詳細にわたるようになります。これらは人に忌み嫌われるような存在でした。ヨブ自身、苦難によってぼろぼろになった自分をレビヤタンと比較しています(3:8)。ところが、神はベヘモトやレビヤタンを大いに自慢しています(40:15-41:34)。たとえば、ベヘモトについては40:19で、「これは神が造られた第一のもの(新改訳では『獣』」と言い切っています。また、レビヤタンの力とその美しさに並ぶべきものは存在しないと神は大いに自慢しています。「それは、すべての誇り高い獣の王である」(41:34)という最高の賛辞を彼に送っています。
 このところで見せる被造物に対する「親ばか」と言えるほどの神の態度は、38〜41章にとどまりません。1〜2章で主がヨブについて語っていることばを思い出してください。

おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。(1:8)

おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。(2:3)

ヨブを含めてあらゆる被造物を自分の自慢の被造物として心から喜んでいる神の姿を実はヨブ記に見いだすことができるのです。神はヨブの「正しい歩み」を認めておられます。それを間違っていると考えてはおられません。しかし、ヨブが上でレビヤタンが下、とかいう上下関係があるわけではないと語っておられます。むしろ、あらゆる被造物によって構成される円卓の一つの席にヨブは座っており、神はそれぞれの被造物、神話上の怪獣も含めて、これらの被造物に与えられているすばらしさを誇っているのです。自らがいのちを与えたあらゆる存在を心から喜んでいるのです。
 神は先に述べたように「過保護」ではありません。むしろ、「親ばか」と思えるような態度をあらゆる被造物に対して取っておられます。このような神の態度は、ヨブを含めた私たち人間の持つ凝り固まった世界理解を打ち破ります。ヨブは罪を犯さず、正しく歩んできました。それゆえに、彼は自らが神に創造物の世界において、そのピラミッドの頂点に位置すると考えていたのです。最も優れた神の被造物であり(「神のかたちに造られた」のは人間だけですから)、その中でも何よりも悪から離れていたのですから、当然といえば当然でしょう。だから、当然、自分に理由のないわざわいと苦しみなど訪れないと思っていたのです。ところが、わざわいが自分の上に「理由もなく」襲いかかった時、ヨブは世界の秩序が崩壊し、光ではなく暗闇が世界を覆い尽くした、と理解しました。このようにして、神はここでヨブの疑問に対して答えておられます。「あなたの世界理解は間違っている。わたしは被造物をピラミッドのように理解してはいない。わたしはあらゆる被造物を大いに自慢している。人間は万物の霊長なんかじゃない、神の家族の自慢すべきメンバーのひとりなのだ。ヨブよ、神の家族へようこそ」と声をかけておられるのです。そして、理由のない苦しみを通して、神の顕現に直面することによって、ヨブはこの世界の秩序を、神がすべての被造物にどのように関わられるかを知ったのです。それはとりもなおさず、神の「人格」を知り、この世界における人間の立ち位置を知ることでした。神が人に求めておられるのは「正しさ」だけではない、「正しさ」がこの世界の秩序の唯一の基準ではない、ということにヨブは気がついたのです。そして、ヨブは、42:6で次のように告白します。

それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。

これこそ、ヨブの大転機であり、彼の回心のひと言だったのです。彼の人格が吟味され、変えられていくことのはじまりなのです。
 
 東日本大震災という出来事は、たしかに「神は怒りとさばきの神である」という思いを私たちに思い起こさせます。そのような考えは間違いだ、と断言することはできません。しかし、同じ悲惨な出来事であっても、別の道筋を辿れば、全く違った神と世界理解、つまり「人間は万物の霊長なんかじゃない。けれども、神は無駄遣いで、親ばかなんだ」に私たちは達することができるのです。。このような世界理解に至ることができることをヨブ記はわたしたちに語っています。しかし、この予想もしない神理解、人間理解に到達する道を辿ることはいのちがけです。まさに知恵の探求の道です。そして、先ほどいった神について、世界について、知恵について、神を畏れることについて、悪から離れることについて、回心する、心変わりをする勇気が必要が求められています。自らの凝り固まった世界理解を捨てる勇気があるものだけが、ヨブ記に描かれているこの神の姿とこの世界の秩序を知り、理解し、受け入れることができるのです。あなたはどうでしょうか。
 
ヨブの応答
 
 神の顕現に出会い、回心したヨブはその後、どう変わったのでしょうか。最初に述べた五つのポイントの二つ目にもあったように、ヨブの人格はどのように変化していったのでしょうか。42:7−17にその変化が記されています。今回のリトリートでの説教のテーマも、「苦しみを通して考えるキリスト者の生き方〜ヨブ記に向き合う」ですから、私たちがどのような生き方を選んでいくのかこそが問われています。今回のリトリートの説教のまとめとして、ヨブ記全体のエピローグをすこし注意深く読むことは大切です。
 42:10−13を読むと、ヨブの繁栄がすべて返されたこと、いや彼の所有物は二倍になったことがわかります。

ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。主はヨブの所有物もすべて二倍に増された。こうして彼のすべての兄弟、すべての姉妹、それに以前のすべての知人は、彼のところに来て、彼の家で彼とともに食事をした。そして彼をいたわり、主が彼の上にもたらしたすべてのわざわいについて、彼を慰めた。彼らはめいめい一ケシタと金の輪一つずつを彼に与えた。主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。また、息子七人、娘三人を持った。

ここから、単純な、ハリウッド映画スタイルのハッピーエンドを多くの人が思い浮かべます。しかし、理由のないわざわいと苦しみを通して、そして神の姿を見ることによって(42:5)、新しい意味での知恵を獲得し、違った意味での「神をおそれる」ことを学習したヨブにとって、すべての所有物を二倍に返されたこの状況は、単純な「神からの苦難に対する弁償」ではありません。二つの点だけ、指摘しておきましょう。
 まず、ヨブは財産を主から受けています(42;12−13)が、今回の一連の経験からわかるように、これらの財産すべては、いつ何時、一瞬にして失われるかわかりません。永続する繁栄という保証など一切ないのです。当然、今回の出来事を通してヨブは気がついています。しかし、それをあえて受け入れる勇気をヨブは持つようになりました。失うことを恐れずに、ただ喜んで受け取るのです。
 その姿勢と密接に関わっているのが、二つ目の点です。ヨブは、自分の三人の娘が美しかったというただそれだけの理由で、兄弟たち同様に嗣業を与えています(42:15)。旧約聖書において娘が嗣業を受け取るのは、男兄弟がいない場合の例外規定でした。しかし、ヨブは、七人の息子がいるのに、三人の娘が美しいからこそ与えられているものを気前よく分かち合う親となったのです。失うことを恐れないからできる行為です。自分の子どもたちを守ろうとする過保護のヨブの姿(1章)はもうここにはありません。親ばかとなり、いつ失うかも知れない富であることも重々承知の上で、子どもたちを歓び、自由に与える人へと変えられているのです。
 この第二点目のヨブの姿は、38〜41章で表されている神の姿とよく似てはいないでしょうか。良いことも悪いこともひっくるめて被造物を誇る神、そして自分の子どもたちを誇るヨブ。彼は、「神をおそれる」ことを学び、神のように自分の家族に関わるものとなったのです。失うことをおそれず、むしろ自由に与え、喜びをもって日々を生きるようになったのです。ヨブにとって「過保護であること」が神をおそれることではありません。失うことを恐れないからこそ、無駄遣いで、気前のいいおやじになる、これこそが、理由のない苦しみを通して、神を見ることによってヨブが獲得した知恵、「神をおそれ、悪から離れる」生き方なのです。「正しさ」にこの「知恵」が加わってはじめて、私たちは人間として、キリスト者として成熟していくのです。
 
まとめ
 
 William Blakeという18世紀後半の有名な詩人、説教者、版画家がヨブ記に関する挿絵を描いています(http://www.artbible.info/art/work/william-blakeを参照)。この絵を注意深く見ていく時、今回の学びで教えられる二つの事を彼も理解していたことに気がつきます。
 まず、ブレイクが描く神の顔とヨブの顔がほぼうり二つであると言う点。ヨブが主を見た絵には、ヨハネの手紙第一3:2、

しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

が書かれています。理由のない苦しみを通して生き方を学ぶということは、主を見ることであり、このことを通して、わたしたちは神の姿に似た者に変えられていくのです。そして、もう一つは、一番最初と一番最後にヨブの家族が木の前に立っている絵が描かれていますが、この二つが対照的なのです。一番最初の絵では彼らは熱心に祈っています。また、家族の前面に描かれているすべての羊は寝ています。しかし、そこに描かれている楽器は、すべて木にかけられており、誰一人として演奏していません。ところが、一番最後の絵では、ヨブ夫妻とその家族は皆でその楽器を奏でているのです。羊たちも起きています。ヨブが神のごとく変えられた時、ヨブの一家は、「正しいけれども何か欠けている」者たちから、「自由で喜びに満ちた」者たちへと変えられていったのです。「正しさ」を否定することなしに、これに加えられるべき人格を、ヨブは自分のものとしたのです。
 
 東日本大震災という出来事を踏まえてヨブ記を読む時、神はある種の回心をわたしたちに求めておられると思えて仕方がありません。日本という国内でも、回心とは呼べないでしょうが、すこしの変化はみられます。また、阪神・淡路大震災時に蒔かれた種が少し芽を出してきているようです。しかし、政治家たち、コメンテーターたち、学者たち、メディアの言葉を読む時に、「理由のない苦しみ」から何も学んではいない、としか思えようのない現実に直面します。だからこそ、ヨブ記というすばらしい文書を神から預かっている私たちキリスト者が、この文書に直面し、生き方の変化を伴う回心を経験させていただくべきではないでしょうか。もちろん、明日からすべてが変わるわけではないでしょう。しかし、もしわたしたちがヨブ記に真摯に向き合い、神を知り、自らを知るならば、ヨブのごとく「神を見る」ならば、わたしたちのうちの何かが変わっていくはずです。