ケープタウン決意表明(4)

三.私たちは父なる神を愛する
 
 聖書に書かれ、私たちが信頼している父、子、聖霊の三位一体の神である。「三位一体」を知的、哲学的な整理のために必要な概念と捉えがちであるが、それはわたしたちの信仰の実際において欠くことのできない大切な真実である。それは、一例を挙げるならば、父なる神はいつも子なる神と聖霊なる神との関わりの中でわたしたちに御自身を表しておられるからである。三回にわたって、父なる神、子なる神、聖霊なる神に関するケープタウン決意表明を学んでいくが、「三位一体」(決意表明では「三位一体」という表現は用いられていない)が信仰の実際においてどのような意義があるのかを覚えていただきたい。
 さて、私たちはイエス御自身を通してでないと父なる神を知ることはできない。
 

  • わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6)

 
そして、聖霊の業がなければ、父である方を「父」と呼ぶことができない。つまり、自らが神の子であることを知ることはできない。
 

  • 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。(ローマ8:14−15)

 
しかし、イエスを通して父なる神を知り、聖霊を通して神の子とされているからこそ、「天におられるわたしたちの父よ」(マタイ6:9)という祈りのことばが与えられ、そのように祈ることがゆるされるのである。「父なる神よ」と私たちが祈る事ができる背景には、いつも御子イエス聖霊がおられる。
 ヨハネによる福音書14章を読むと、父と御子との関係、わたしたちと御子と父との関係を知ることができる。14:10−11には父と御子が深い結びつきの中にあることが綴られている。この関係は「互いに愛を与え、愛を受け取り合う関係」である。御子が父を愛し、父が御子を愛する、そのような結びつきがいつも存在している。この父と御子の愛の交わりの中に、神の子イエスを通して私たちは入れられる(14:20)。そして、「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(14:23)というみことばが成就するのである。ただし、この愛の交わりは、内面的なもの、心情的なものではない。むしろ、イエスのことば、つまりその掟を受け入れ、守る(14:21)というイエスへの愛の服従と表裏一体である。そして、イエスを愛し、そのことばを守ることは、父なる神に愛され、父と御子との交わりの中に入れられることと不可分である(14:23)。このようにして、御子と聖霊によってわたしたちは三位一体の神の交わりに入れられ、イエスの父なる神を「父よ」と呼ぶことができる身分を与えられるが、それはいつも、父と御子の愛を受け、この方を愛し、この方に従うことである。愛の交わりに入れられているのに、その交わりの中にいる方に対して無関心で生きることなどありえないからである。
 
A. イスラエルという神の民との継続性
 神が父であることは、新約聖書の時代、イエスが登場して初めて明らかになったことではない。イスラエルの民にとって神は父であられた。そして、異邦人である私たちがイエスを通して、このイスラエルの恵みに加えられたに過ぎない(エフェソ2:19)。イスラエルにとって神は父であり(申命32:6)、創造者であり(32:18)、持ち運びかつ訓練した方であり(1:31、8:5)、イスラエルの尊敬と従順を求め(イザヤ1:2、マラキ1:6)、彼らの愛を切望し(エレミヤ3:19、ホセア11:2)、彼らをゆるし、導き(エレミヤ31:9)、あわれみ続けられる(詩篇103:13)。だからこそ、イスラエルもその回復を父に求める(イザヤ64:7−8)。イスラエルに父として関わってくださった神が、今、私たちにも全く同じ父として関わってくださっている。
 
B. 御子を与えて下さった父の愛
 ヨハネによる福音書3:16は、御子を与えることによって表された父の愛を私たちに語ることばである。そして、それゆえに「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(1ヨハネ3:1)と「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)のみことばをもって、この父の愛への驚きを私たちは表す。
 ただし、この御子の犠牲は、父の一方的で、強権的な意思によってなされたものではない。「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」(ガラテヤ2:20)とあるように、御子御自身の意思である。さらに、「永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血」(ヘブライ9:14)とあるように、聖霊も父と御子の一致のうちにこの業に加わっておられる。三位一体の神の一致し、調和のうちにある意思に基づいて、御子がわたしたちに与えられたのである。だからこそ、ガラテヤの信徒への手紙1:4−5のことばはわたしたちの信仰告白でもある。
 
C. 父と似た者とされる
 御子を通して父なる神を「父」と呼ぶことができる、神の家族の一員に入れられた。この新しい関係は、必ず私たちの生き方に反映する。父のごとく生きる者こそ子であるからだ。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)こそ、神の宣教に生きる、神の子とされた私たちが、神の恵みによって目指すべき姿である。そして、このみことばが含まれているイエスの山上の説教(マタイ5〜7章)は、神の王国(つまり天の王国)に入れられた者である(4:17)キリストの弟子たち(5:1)に、父に似た者として歩む人格がどのようなものであるかをはっきりと教えている。キリスト者が、それぞれの遣わされている所で山上の説教に則って生き方を選び続ける時(たとえ失敗したとしてもあきらめずに、神の恵みに寄り頼みつつ)、神の王国はわたしたちの遣わされた場所に目に見える形で表され、「神の栄光が現される」という私たちの人生の目的が現実となり、宣教のわざが進んで行く。
 
 わたしたちが不完全な父であったがゆえに、「神は父である」という真理がないがしろにされていた。もう一度、聖書に現されている父なる神の豊かな姿を私たちの信仰生活のうちに回復したい。