ケープタウン決意表明(3)

二. 私たちは生ける神を愛する
 
 聖書は私たちに生きておられ、唯一の神を示している(申命記4:35、39)。しかし、まず問われるべき事は、私たちはこの方をそのような方として本当に知り、理解しているだろうか。たとえば、詩篇33:6−9では、
 
   御言葉によって天は造られ 主の口の息吹によって天の万象は造られた。
   主は大海の水をせき止め 深淵の水を倉に納められた。
   全地は主を畏れ 世界に住むものは皆、主におののく。
   主が仰せになると、そのように成り 主が命じられると、そのように立つ。
 
と歌われている。創世記1章を思い起こさせる主のことばによる創造を知り、全地と共に本当に主を畏れているか。また、イザヤ40:22−24では、
 
   主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。地に住む者は虫けらに等しい。 
   主は天をベールのように広げ、天幕のように張り その上に御座を置かれる。
   主は諸侯を無に等しいものとし 地を治める者をうつろなものとされる。
   彼らは植えられる間もなく、種蒔かれる間もなく 地に根を張る間もなく
     風が吹きつけてこれを枯らす。嵐がわらのように巻き上げる。
 
と語られている。世界のあらゆる支配者にまさる本当の統治者であり(天上の座についておられる)、その力は人間の権力者とは格段の差がある。さらに、詩篇96:10および13
 
   国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。
     主は諸国の民を公平に裁かれる。(96:10)
 
   主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。
      主は世界を正しく裁き 真実をもって諸国の民を裁かれる。(96:13)
 
では主の正しい審判(さばき、統治)のゆえに、世界が固く据えられている(「真実」は確かなことを現す)。そして、最終的な審判の到来も期待されている。「この神のみが唯一のこの世界の創造者、支配者、審判者、救済者である」というひと言がここまで覚えているか。そして、このように覚えることこそ、この神が「生ける神」である、つまり21世紀のこの世界にも生きて働いておられることを信じ、告白することである。
 そして、主の姿を知っているからこそ(とくにその唯一性)、「私たちは神を愛する」。その愛は、感謝とその摂理への服従と来るべき正しいさばきへの信頼とその救いの業ゆえの賛美に現されている。このように具体的な形で、「神を愛する」ことをしているだろうか。
 
A. 偶像崇拝
 聖書が語っている偶像崇拝とは、単に目に見える像に代表される異教の神々のみをさしている訳ではない(当然、申命記4章や6章で語られているのは、第一義的には異教の神々であるが)。
 偶像崇拝への道の一つは、「この世界」「私たちの周囲の人々」である。つまり、私たちが置かれている世界の中で、特異で、ある意味孤立した存在になろうとするのではなく、まわりと同化する力が働く。その力は、周囲の人々の神々を追い求めさせ、生ける神への愛を薄いものとする。現代の日本において、貪欲、権力、成功という偶像が溢れている。そして、貪欲を満たすためにキリスト教を用いるというシンクレティズム(繁栄の福音)が多くある。また、民主主義、資本主義、社会主義自由経済などなど、この世のイデオロギーや価値観を、無批判で受け入れている。キリストが唯一無二の方であるのに、他の神々とそれほど変わらない、いや、他の神々を辿っても善いキリスト者になることができるという考えももある。
 私たちもイスラエルの民同様、世界のクロスロードであるカナンに住んでいる。そして、競合するものの力は強い。
 
B. 神の栄光を一途に求める
 神は御自身がすべての被造物に知られ、すべての被造物がこの方に栄光を帰すことを願っておられる。すべての造られたものが神に栄光を帰すことこそ、神の宣教とそれに参画する私たちの宣教のゴールである。ただし、これは神の「自己中心的なゴール」ではない。実際に唯一無比の方である神であるのに、被造物がそれを認めていないからこそ、現実と人々の対応が一つとなることを神は願っておられるのだ。
 ローザンヌ運動の創始者の一人であるジョン・ストット(イギリス)のことばは神の宣教にたずさわる私たちに正しい焦点は何かを教えてくれる。大宣教命令も大事である、滅びようとしている罪人への愛も大事である。しかし、神とイエス・キリストの栄光をなによりも求めることなしに、命令も愛も、危険な偶像崇拝への道となり得ることを忘れてはならない。
 現代の社会は、神の御名に栄光を帰すことができなようなできごとで溢れている(無神論、世界の宗教での偶像崇拝、大衆文化、名前だけのキリスト者たち、自らの貪欲を満たそうとして福音をゆがめるキリスト者たち)。その現実を、まずキリストと共に悲しむことも大切な一歩である。
 
 それでは、偶像崇拝に満ちた世界、私たち自身もかんたんにそこに陥ってしまいそうなこの世界(「神を拒絶したり、ゆがめたりする世界のただ中にあって」)において、神の栄光を求める宣教を進めることにおいて大切なのはなにか。それは、バランスの取れた宣教である。大胆かつ謙遜に証しをし、福音の真理を力強くかつ礼節をもって擁護し、罪の意識を起こさせつつ信仰の確信を与える聖霊の働きを覚えること。そのようなバランスの取れた宣教の業を通して、神の御名と栄光とみことばがすべてのものにまさって大いなるものとなり、さらに神の栄光を一途に求める人々が起こされるようになる。