ケープタウン決意表明(1)

* 序文
 
 2010年に南アフリカケープタウンもたれた第三回ローザンヌ会議で出されたケープタウン決意表明を学ぶ。この会議のテーマのみことばは、「神はキリストにおいて世をご自分に和解させた」(2コリント5:19)である。このみことば示唆すること:宣教は本質的に、神がキリストにおいてなして下さった和解のわざにその中心点がある(ところが、人のなす様々な働きに宣教の重点が置かれてしまってきたことが、歴史の中で見いだされる問題点である)。この文書は、1974年の第一回ローザンヌ会議で出されたローザンヌ誓約、第二回ローザンヌ会議(1989年にマニラにて)で出されたマニラ宣言に続くものであり、この二つの文書に対しても誠実であろうとすることの決意を表明したものである。
 
(1) 時代の変化
 加速度ペースで変わりゆく世界、危機的な問題。
 それと共に、全世界的キリスト教会の成長。かつては欧米中心のキリスト教会であった(1910年でイギリスのエジンバラでもたれた宣教会議では、欧米から非欧米諸国への宣教が課題であった)。しかし、現在、キリスト者の3/4以上が南側諸国および非西欧諸国に住んでいる(アフリカ、南アメリカ、アジア)。その現れとして、南アフリカでもたれた宣教会議。
 教会は、時代の変化の現実に対して、キリスト者の使命に基づいた応答が求められる。過去の遺産(それはよき知恵もあれば、愚かな過ちも含まれている)を受け継ぎつつ、変化の時代に対応することが求められる。
 
(2) 変わらない現実
 時代が変化しても、変わらない現実がある。それは聖書の真理に基づくもの。

(a) 失われた存在としての人間。
 罪と反逆、神の公正なさばきの下にあり、キリストなしで希望なし。
(b) よい知らせとしての福音。
 福音とは何か。「神・罪・救い・信仰」という四つのポイントが福音であるという考え方は、すこし偏っている。聖書が語る福音とは、「イエス・キリストの生と死と復活と支配という歴史上の出来事において、神が世を救うために見事に成し遂げてくださったことについての、不変のストーリーである」。私たち人間がどうであるか、なにをしたかが福音ではなく、神がイエス・キリストの生と死と復活と支配(地上での働き、十字架、復活、昇天による支配)のすべてを通して、なされ、これからなされる一連の出来事こそ、よい知らせである。福音書すべれが福音の中心である(金曜日だけの福音、十字架だけの福音に生きている傾向が強い)。この神の福音のストーリーを、新鮮な切り口で、この時代に対して語ることが大切である。変わる時代に対してふさわしい切り口を探し求めることを拒否してはならない。ケープタウン決意表明では、「福音とは何か」が何度も語られる。このことを学んでほしい。
(c) 神の宣教の業は継続する。
 世の終わりまで、そして地の果てまでの宣教のわざは、本質的には「教会のわざ、人のわざ」ではない。あくまでも「神の宣教のわざ」であり、宣教の主体は神である。教会は神の宣教の業に参画する(礼拝で語っている、「神の動きにあわせて教会が動くわざ」こそ宣教である)。宣教の主体の理解が適切になっているだろうか。
 
(3) わたしたちの愛の核心
 ケープタウン決意表明は「愛」という言葉で全体が組み立てられている。しかし、ここで「愛」とは何か。それは「契約上の言葉」であり、「献身(コミットメント)」において表現される。感情的なものではない。生き方そのものが「愛」である。わたしたちの存在すべてを賭けたものである。だから、神の愛は献身とそのわざに表されており、その神の愛に対するわたしたちの応答も、「主に対する信頼と従順と熱心な献身とにおいて」表される。「契約上のことば」とはそのような意味をも含んでいる。
 ローザンヌ運動は、「全福音、全教会、全世界」という三つの「全(whole)」をそのスローガンとしている。だからこそ、わたしたちの愛も、「全福音(もしくは福音の全体)、全教会、全世界」に対する愛である。「全福音」とは「よい知らせ」、それも「被造物のあらゆる次元に対するもの」。つまり、人間だけの救いの話ではない。すべての造られたものへの福音である。創造された天地の回復である。「全教会」は、地理的、歴史的な制約を超えた、神の民を指す。今、日本のここにある教会だけを指すのではない。「全世界」は神が御子をお与えになるほどに愛された世界、神から遠ざかってはいるが、神の心のごく近くにある世界。神を拒絶しつつも、神が徹底的に関わりを持ち続けて下さる世界である。つまり、全福音も、全教会も、全世界も、実に包括的なものである。宣教とは、全教会が、全福音を全世界に伝える働きを指している。一部の教会が、福音の一部を、ある限られた部分の人々に伝えるようなはたらきではない。