The Lost World of Genesis One

The Lost World of Genesis One: Ancient Cosmology and the Origins Debate

The Lost World of Genesis One: Ancient Cosmology and the Origins Debate

 Wheaton Collegeの旧約学教授であるJohn Waltonが創世記1章を古代近東の文脈の中での読みを一般の読者向けに書いた本。保守的な福音派に立っている。
 ある意味で、誰かが書いてくれないか、と思っていた本。日本語に翻訳する価値があるかもしれない。とはいえ、彼のすべての議論に同意できる訳ではないが。
 創世記一章は「ものの創造」に関するテキストではなく、「はたらきの割り当て」に関するテキストである、というのが中心的な主張である。

In this book, I propose that people in the ancient world believed that something existed not by virtue of its material properties, but by virtue of its having a function in an ordered system... {Sun} exists by virtue of the role that it has in its sphere of existence, particularly in the way that it functions for humankind and human society. (26)

たとえば、光とやみが造られたのではなく、光の時間とやみの時間が作られた結果、夜と朝が生まれたと理解している。また、創世記1章を注意深く読むと、その焦点が「ものの創造」ではなく、「はたらきの割り当て」であることも指摘している。
 「ものの創造」と「はたらきの割り当て」をある意味で対立的に主張している。確かに、創世記1章の記事は、はたらきの割り当てに焦点が当てられてはいる。しかし、「ものの創造」という側面が皆無であるとは言い切れないように思える。このあたりは、議論が分かれるだろう。
 しかし、無条件で受け入れるのは、「創世記1章(正確には1:1−2:3だが)は神の住む神殿の建築の記事」という理解。世界の創造は、神の住む神殿の創造である。

Deity rests in a temple, and only in a temple. This is what temples were built for. We might even say that this is what a temple is--a place for divine rest. Perhaps even more significant, in some texts the construction of a temple is associated with cosmic creation. (72)

そして、以下に書かれているが、七日目の休息は、世界に秩序が到来し、通常業務が始まったことを表す。神の休みとは、戦いの終わりである。

{i]n the ancient world rest is what results when a crisis has been resolved or when stability has been achieved, when things have "settle down." Consequently normal routines can be established and enjoyed. For deity this means that the normal operations of the cosmos can be undertaken. This is more a matter of engagement without obstacles rather than disengagement without responsibility. (73)

ただし、明白なことだが、創世記1章には、何らかの神々との戦いをにおわす記事は一切ない。てあえ言うならば、分割がされておらず、空っぽの世界、つまり役割が割り当てられていない世界との戦いなのだろうか。
 かなりの部分で同意する。しかし、二つの疑問点がある。
 まず、先述の通り、「ものの創造」と「はたらきの割り当て」の分離は、そこまで厳密なのだろうか。確かに、はたらきの割り当てが主ではあるが、あたかも「ものの創造」の側面がないかのような表現は、すこし行き過ぎなような気がする。著者が、創世記1章(はたらきの割り当て)と進化論(ものの創造)が両立しうると最後に言っている点から考えて、科学を否定することなく、聖書を保とうとする点から、この分離が出ているように思える。
 もう一つの疑問は、本書の最後の方で展開している、進化論は経験科学の観点から、「目的に関して中立」で教えるべきであるという主張。聖書は明確に「目的」をもっている。無目的を主張する進化論とは明らかにかみ合わない。だからこそ、公立学校で教える進化論は「目的」において中立であるべきだと主張している。しかし、これはあきらかに「モダニズム」。中立の存在の可能性を認めている。中立は存在し得ない。むしろ、自らのバイアスをあえて示しながら語る、という方法の方がより現実的ではないだろうか。
 日本語でこのような書籍がないので、飜訳しようかな、と思ったりもする。