私家版・ユダヤ文化論

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

 かなり興味深い本。結構、引用すべきところがあったので、引用してみた。
 

自らを「神に選ばれた民」であると信じ、自ら「聖なるもの」であると思いなしている信仰者集団は世界のどこにも存在する。けれども、「救い」における優先権を保証せず、むしろ他者に代わって「万人の死を死ぬ」ことを求める神を信じる集団は稀有である。「ユダヤ的知性」は彼らの神のこの苛烈で理不尽な要求と関係がある。この不条理を引き受け、それを「呑み込む」ために彼らはある種の知的成熟を余儀なくされたからである。(188)

イザヤ書53章を生きる使命を与える神を信じるユダヤ人。そのすごさであろうか。
 

それはつまり、殺意も有責感も、どちらも単独では、それほどに深く人間を損ないはしないということである。もっぱら邪悪な人間も、もっぱら反省ばかりしている人間も、いずれもそれほどに有害な存在ではない。シンプルマインデッドに邪悪な人間には敬して近づかなければよいし、常住坐臥自分の罪責をくよくよ反省している人間はそこらに放り出していても、気鬱なだけで誰にも迷惑はかからない。危険なのは、殺意を抱きつつ同時にそのことについて有責感を抱いている人間である。そういう人間はあまり強い有責感ゆえに、「自分が殺意を抱いている」という事実そのものを否認するからである。「引き受け手のいない殺意」、それが「悪魔」の正体である。(203−204)

このことばはすごい。メディアが好んで取り上げる無差別殺人的な人々は、シンプルマインデッドな人々である。その一方で、一番私たちを悩ませるのが、この「殺意をいだきつつ同時にそのことについて有責感をいだいている人」である。いや、多くの人がそのような存在であり、実は、自分のひとつ間違えば、自分が否認していることを行ってしまう危険性がある。普通の人の狂気である。これが、ジェノサイドなどで現れてきてしまう。
 

対立や葛藤というものについて私たちが知っていることは(逆説的に聞こえるだろうが)、対立や葛藤は対立し、葛藤しているものを相殺するのではなく、むしろ強化するという経験的事実である。(210)

上の引用と結びつく。矛盾を暖かく抱きしめるならば、このようにならないだろう。しかし、矛盾を否定しながら押し殺していくと、対立が強化され、そして狂気が生み出されてくる。バイナリーに物事を考える危険性であり、ひょっとするとモダニズムの問題は、すべてを対立的に考えてしまう点なのかもしれない。「矛盾を暖かく抱きしめる」ことこそ、ひょっとしたら命ある生き方なのかもしれない。
 

レヴィナスユダヤ教の時間意識を「アナクロニズム」(時間錯誤)という語で言い表している。アナクロニズムとは「罪深い行為をなしたがゆえに有責意識を持つ」という因果・前後の関係を否定する。「重要なのは、罪深い行為がまず行われたという観念に先行する有責性の観念です」。驚くべきことだが、人間は不正をなしたがゆえに有責であるのではない。人間は不正を犯すより先にすでに不正について有責なのである。レヴィナスはたしかにそういっている。(217−218

内田樹ユダヤ人の特異性としてあげているのが、この点。「わたしは悪いことをした。その結果、責任を感じるようになった」という人間の因果律ユダヤ教は否定していると考えている。人間の因果律が正常な時間の流れとすると、この因果律を否定するから「アナクロニズム」となるのだろう。人は責任ある存在として、不正等を犯す以前から定められているというのがユダヤ教なのか。
 

私は歴史的にどのような事実があったかどうかにかかわらず有責である。私は隣人を歓待するか追放するかの選択をなす以前の過去においてすでに隣人を追放しているのだが、この追放の事実は、「いまだ到来しておらず、一度として現在になったことのない」出来事なのである。なぜなら、私自身が私自身の善性の最終的な保証人でなければならないからである。神への恐れ、神の下すであろう厳正な裁きの予感が私を善へと導くのではなく、善への志向は私の内部に根拠を有するものでなければならない。私がほんとうに自ら主を追い払い、その罰を主から受けることを恐れているとしたら、その有責感は単なる懲罰への恐怖に過ぎない。私は善であるのではなく、単に恐怖しているに過ぎない。(223)

このあたりの議論は、ひょっとしたらマッキンタイアの内的善と外的善の区別と結びつくのではないか、と考えている。懲罰をさけるという外的な善を求めるためによいことを行うという「子どもの生き方」がある。しかし、それがユダヤ教の思想ではない。むしろ、内に与えられている「責任」のゆえに、よいことを行う。責任があるからよい選択をするのであって、懲罰を恐れるからよい選択をするのではない。マッキンタイアのパラレルなのか、それともそうでないのか。
 

善が存立するためには、人間は「一度も存在したことがない過去」を自分の現在「より前」に擬制的に措定しなければならない。そのためにこそ、そのつどすでに取り返しがつかないほどに遅れて到来したものとしておのれを位置づけなければならないのである。(234)

内田は、あくまでも因果律を保とうとしているのかもしれない。つまり、罪を犯したから責任が生まれる、という因果律を内田は保とうとしている。しかし、実際に罪を犯さなくても、責任が生まれているからこそ、「一度も存在したことがない過去」を擬制的に措定しているというのだろう。ただ、罪と責任はそのような因果律によって誕生するものとして定義されているのだろうか。空白からも責任が生まれる可能性を考える必要はないのだろうか。
 

幼い人々は善行が報われず、罪なき人が苦しむのを見ると、「神はいない」と判断する。人間の善性の最終的な保証者は神だと思う人は、人々が善良でないのを見るとき、神を信じることを簡単に止めてしまう。「神はなぜ手ずから悪しき者を罰されないのか」「神はなぜ手ずから苦しむ者を救われないのか」。これは幼児の問いである。全知全能の神が世界のすみずみまで統御し、人間は世界のありように何の責任もないことを願う幼児の問いである。
 「なぜあなたの神は、貧しい者たちの神でありながら、貧しい者を養われないのか?」。あるローマ人が古代の伝説的な賢者であるラビ・アキバにそう尋ねたことがあった。そのときラビはこう答えた。「私たちが地獄の責め苦をまぬかれるんことができるようにするために」。「人間の義務と責任を神が人間に代わって引き受けることは出来ないという神の不可能聖をこれほどきっぱりと語ったことばは他にありません。人間の人間に対する個人的責任は神もそれを解除することが出来ないよな責任なのです」。(225−226

アキバが登場すると思いっきりユダヤ教的になる。結局、神義論の問題にもちこんでいるような気がする。
 内田のような考え方をしなくても、「神のかたちに創造された人間」という創世記1章の理解から、人間の責任論は登場するような気がする。人間ははじめから責任ある存在として、神の統治を地上で映すイコンとして定められた。そこにすべての原因があるように考えるべきではないだろうか。
 原罪論というのは、創世記2〜3章を受けて考えられている。つまり、罪を犯した、だから罪悪感が生まれた。そして、罪を犯し続けるから、罪責感は消えない。しかし、創世記1章をもっと真剣にとらえるならば、もうすこし違った考え方ができるのかもしれない。責任ある存在として創造されている(「呼ばれている」でもいい)。しかし、その使命に生きない現実が2〜3章で描かれているのではないか。
 何はともあれ、内田の本は、food for thoughtである。