電脳コイル

 電脳コイルの再放送を一生懸命見ている。昨日は、メガネをはずした(取られた?)子どもたちの回。あと、二回で、終わり。
 それにしても、よくぞこれほど最終回につながる伏線(テーマとしての)が張られているなあ、と思わず感動。デンスケを触っても感覚がないこと、ヤサコのお母さんとペットの関係。デンスケの感触を覚えているキョウコの話。デンスケとの関わりのテーマは、最後のほうで、まとめられ、デンスケこそ、現実的な存在であることが示される。
 一番、いいのは、ヤサコが「こころの痛みはまやかしものか、そうでないのか」と、哲学的思想をする所。手で触れるものが"real”であるならば、デンスケはまやかしものだし、心の痛み(デンスケを失った、そしてたぶんイサコが帰ってこないことの)もまやかしものだ。しかし、ヤサコはそういう結論には至らない。心の痛みこそ"real"である、と結論づける。心の痛みはまやかしものではない、これは確かに存在する。「われ思う、ゆえにわれ在り」ではないが、痛みが確かにあることをヤサコは疑えない。そして、痛みを感じる方向に真実がある、と結論づける。そして、痛みに向き合うことを彼女は選び取る。
 痛みは本物である、だから本物の方へ向かう。ヤサコのこの行動は、彼女が「イサコ」になっていくプロセスの始まりである。勇気のない人間は、痛みがあっても痛みをまやかしものと思う。痛みは"real"ではない、と痛みを否定する。しかし、ヤサコの勇気ある点は、痛みこそが"real"であり、痛みこそが真実への道である、と信じて、痛みを直視することを選ぶ点ではないだろうか。だから、かつて金沢在住時に問題を起こした友人のマユミのところへ向かう訳だ。
 癒しと成長のための道は、勇気をもって「痛みを感じる方向」へ向かっていくことではないだろうか。だから、子どもであることを選び取ろうとするイサコは、痛みを感じる方向を避け、兄の所に残ろうとする。しかし、最後は、痛みを感じる方向に向かって走り、兄はイサコのその行動を助ける。
 本当の勇気とは、痛みを感じる方向に向かって走ることではないか。