コンスタンティン

コンスタンティン [UMD]

コンスタンティン [UMD]

 夜のテレビの映画。結構、カットしていたのか、と思いながら見ていた。妻は、こういう気持ち悪いのはだめなので、英語の音声だけを聞いて、雰囲気だけを味わっていたようだが。
 神とサタンの善悪二元論的な世界、それに明確なルールが存在する地上世界。さらに、天国と地獄という明確な二分論。再臨とか言う発想がない。さらに、自殺をすれば、どんな敬虔なクリスチャンも地獄。ここまで単純化された世界観は受け入れられないが、まあ、エンターテイメントと理解して見るしかない。わかりやすいといえば、わかりやすいから。地獄や天国のCGも、「なんとなくそうと思える」ような描写。中世的なキリスト教理解なのかなあ。
 悔い改めにより簡単にゆるしをあたえ、天国へ連れて行くという神の方法に対して反感を抱いている天使(のような者)が、地上にサタンの子であるマモンを連れてきて、「困難と迫害と苦難のなかでも神に従う」人だけが選ばれるような仕組みに世界を変えようとする、というのがメインプロットである。それに対して、キアヌ・リーブス扮するコンスタンティンが戦っていく。最後は、自殺未遂を冒したがゆえに地獄行きが決まっているコンスタンティンが、再度自殺をし、サタンを呼び寄せ、天使のような者の画策を撃ち壊すというお話。
 再度自殺をし、地獄行きが決まったコンスタンティンの功績(マモンの野望を打ち砕いた)に対して、コンスタンティンは、自分ではない別の人を地獄から救い出すことをサタンに願い出る。自分を救うのはなく、他人を救う訳だ。この自己犠牲のゆえに、その人が救われるばかりか、コンスタンティンも救われ、地獄に行く必要もなく、蘇生する、というのが結末。このあたりには、自己犠牲こそが救いの道であるというキリスト教的な発想が見られる。さらに、物語のプロットから考えると、マモンを連れて来て、世界を地獄のようにしようとした天使のような者の願いは、自己犠牲によって他者を救ったコンスタンティンのような者を生み出すことが目的。したがって、地上を地獄のようにすることには失敗したが、コンスタンティンを変えた、という意味では、その目的が果たされたのだろうか。ガブリエルの最後のせりふはそのようにも思える。さらに、コンスタンティンの神への祈りは、神の直接的介入によっては聞かれなかったが、彼の行動そのものが、神の直接的介入であったのかな、とも思う。神は働かれていないようで、働かれていたわけだ。
 聖書が語るキリスト教の救済の発想は、この映画のような単純なものではない。悔い改めたらもう問題なし、というわけではない(その後の生き方も問われる)。自殺したら地獄、というのも聖書には語られていない(そんな単純な神学、だれが言い出したのだろう)。死んだ時、天国に行くか、地獄に行くかが究極的な問題ではなく、最後の審判が問題だ(N.T.Wrightの言う"a life after a life after death")。この世界は、神とサタンの「どちらがたくさんの信者を手に入れるか」という争いの場でもない。二元論と単純化に満ちあふれてはいるが、「自分を救わず、他人を救うことによって、究極的には自分を救う」という福音書のイエスのことばを絵にしている点は、救いがあるのかなあ。