信頼の構造

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム

 結構、ためになる本。少し詳しく書いておく。
 まず、信頼概念の区別について。信頼を能力に対する期待と相手の意図に対する期待に分類する。さらに、相手の意図に対する期待において、相手と自分との間には社会的不確実性がない時が安心、社会的不確実性がある場合には信頼と呼ぶ。社会的不確実性があるとは、相手が裏切る可能性があり、裏切られた時には多大の損害を被る可能性がある状況での関わりが信頼なわけだ。相手が決して裏切らない場合の関わりは「信頼」ではなく、「安心」。集団主義の社会では、「安心」による関わりが中心である。
 社会的不確実性がある場合の信頼も、さらに二種類に区別される。まず、だれに対しても信頼に値する行動を取る人間であるという期待に基づく「人格的信頼」。次に、相手が自分に対する態度や感情に基づく「人間関係的信頼」。
 もうひとつの区別は、信頼性と信頼。信頼性は、信頼される側の特性。そして、信頼は信頼するがわの特性。信頼は、相手の信頼性の単なる反映ではない。不完全な情報のゆえに、十分な信頼性を持たない人を信頼することもあるからである。
 この区分を導入して、著者が言おうとしているいくつかのポイントを。
 まず、安定した社会、社会的不確実性の低い社会では、安心が提供される。しかし、そのような社会にいる場合、社会的不確実性の高い状況で相手を信頼するという機会がないので、信頼を育む事はできない。しかし、社会的不確実性が高い状況では、安心は提供されないので、信頼が育まれる。そりゃそうだ。
 次に、安心に留まり続ける人は、用心深さを必要としない。つまり、相手の信頼性を測り、それに基づいて信頼するという行動を取る必要はない。従って、用心深さが育まれない。しかし、信頼する人は、直面している社会的不確実性のゆえに、用心深さが必要である。相手の信頼性を見きわめて、信頼するかどうかの決断が求められるからである。
 日本は、安心社会である。社会的不確実性が低い、と考えられている。だから、「安心」は存在していた。しかし、信頼を育む事はできなかった。用心深さを育む事もできないでいる。だから、社会的不確実性が増えてきた現在、だまされる人が多い。用心深さを持っていないからである。
 さて、山岸俊男の議論の面白い所は、Aに信頼していた人が、それをやめて、Bに信頼するようになる状況について考察しているところである。キリスト教の観点から言うと、回心についての考察になる。
 コミットメント関係を築いている場合、そのコミットメントを離れて、別にコミットメントに移動する時に得られるコストが大きい時と小さい時がある。得られるコストが大きい時、その関係から離れるほうが有利である。簡単な例は、通いの電気屋さんで電化製品を買っていた人が、大手量販店で買うようになる場合を思い浮かべてもらえればいい。ただし、社会的不確実性が低い場合には、たとえコストが大きくてもそのコミットメントに留まるだろう。つまり、コミットメントを移動する事によって得られるコストが大きく、かつ社会的不確実性が高い時、コミットメントを移動する環境が整う。
 ただ、ここでコミットメントを移動するためには、未知の相手を信頼できるかどうかにかかってくる。未知の相手を信頼することができる人は、コミットメントを移動し、高いコストを得られる。しかし、そうでない人は、コミットメントを移動することができず、結果的に高いコストを得る事ができない。
 しかし、間違った相手を信頼する可能性はある。その場合、相手を信頼する人は、その相手の信頼性がどれほどのものなのか、適切に見きわめることができる。つまり、信頼すべきではない相手が誰か、見きわめることができる。興味深い事に、相手を信頼しない人は、相手の信頼性を見きわめる事がへたくそである。つまり、信頼すべきではない相手が誰であるか見きわめられないのだ。その結果、だまされてしまうか、だまされるのが怖いためにコミットメントの移動をしないのだ。集団主義という安心を求める社会は、結果的に信頼する能力を破壊する。そして、機会コストが高く、かつ社会的不確実性が高いのに、コミットメントを移動する事ができない人々が育てられる。今の日本はそのような状況かも知れない。
 キリスト教への応用についてはもうすこし考えなければならないが、結構、役に立つ議論であると思う。