アメリカン・コミュニティー

アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所

アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所

 先日、朝日新聞の書評欄に載っていたので、購入し、それを読み上げた。
 アメリカの様々なコミュニティーに滞在し、そこで考えたことをまとめた書。資本主義と市場主義の真ん中で、それとそれぞれのコミュニティーがどのように対峙しているか、いろいろと書いている。私自身が前から感じていた「アメリカという国の多様性」を的確に指し示していてくれる本だ。
 アナバプテストのコミュニティーメガチャーチ、ディズニーが作った住宅地や門のある大きな住宅地、再生されたインナーシティーアメリカの平均的な町、東サモアに刑務所の町、農牧業の地、といろいろな共同体が書かれているが、それぞれが、アメリカの大きな物語に対するなんらかのカウンター・ディスコース(対抗言説)を持っている。もちろん、資本主義や市場主義と向き合うことは絶えず必要であるが、その中で、それと対話し、対峙し続ける力を感じる。アメリカの幅の広さと言ってもいいのだろう。日本にはカウンター・ディスコースがほとんどない。それが日本の狭さ、弱さだとすれば、これほどの多様なカウンター・ディスコースを持つアメリカは、広く、強い。わたしの友人たちの広さと強さは、その当たりから出てくるのだろうか。
 ひとつ、考えさせられる言葉は

「どんな場所であれ、最初のうちは、語るのは容易いものです」
その場所に長くいればいるほど、そして、知れば知るほど、その場所をどう語ればよいのか、いや、そもそも語り得るものなのか、覚束なくなるということだ。・・・
アメリカから遠ざかるほどにアメリカを語るのは容易くなり、周囲が欲するアメリカを語ることにも長けてくる。(251)

10年の留学があったが、わたしも、アメリカを簡単に語ることなく、人々が欲するアメリカを語るのでもなく、本当の、多様で、変なアメリカを語る必要があるのかも知れない。