なぜ旧約聖書を解釈するのか3

 解釈の第三の段階は、統合(Integration)である。これは、解釈の段階で得られた知見を、より広い文脈の中に置き、その限界、その広がり、その対話を知る作業である。まず、聖書という正典全体から、考える。この場合、いわゆる間テキスト性(intertextuality)に注目することも大切である。間テキスト性に注目することによって、正典内での対話が見えてくる。それと共に、聖書全体を単なる文書のコレクションと考えるのではなく、聖書全体を流れる一つの「大きな物語」の枠組みの中で、どの位置にあるかも考える必要がある。旧約聖書の場合、特に、イエス・キリストにおける問題の解決に至る途上という位置に絶えずある。しかし、欠いてはいけない大切な一部分である。また、イエス・キリストの父なる神の姿を明確に示している書である(旧約の神も愛の神である!出エジプト記34をみよ!)。さらに、神の民であるイスラエルの失敗と彼らに対する約束を記した書でもある。これらの要素を考慮に入れつつ、解釈で得られた知見をマッピングする必要があろう。
 さらに、統合の段階において、教会が受け継いできた「信仰の基準」(多くの場合、使徒信条いわゆる信仰告白に結晶化されている)とアウグスチヌスが言っている「愛の基準」(聖書解釈は神への愛と隣人への愛を増すものとなるべき)との対話も必要とされる。この二つの基準と相反する知見に関しては、十分に注意を払う必要がある。もちろん、信仰の基準や愛の基準はいつも「聖書によって改革されるべきもの」である。信仰の基準のもつその限界を知りつつも、2000年間にわたる教会の歴史の中に働かれた聖霊のわざに対しても、謙遜に耳を傾けるべきである。
 「統合」という表現をもちいたが、「マッピング」という表現の方が、私個人的にはしっくりとする。つまり、解釈によって得られた知見がどのような位置に有り、その位置に属するがゆえの力と限界をわきまえることができるからである。
 そして、解釈の最後の段階、「(忠実な)応答」(Faithful response)に至る。ここでは、統合によってマッピングされたものを前提に、21世紀のわたしたちの歴史的、文化的、社会的、経済的な文脈において、解釈された知見に対して応答すべきかを考える。応答であるから、あくまでも「行動」である。もちろん、それは知的な行動の可能性もあるだろう。しかし、神のめぐみのメッセージに対する現代の私たちの応答を考える段階である。できるかぎり、具体的な行動を思い受かべる必要がある。統合という段階における熟考の結果、現代の応答は旧約聖書のあるテキストから得られる知見とは全く逆になる可能性もある。そのようなことを考えつつ、このみことばにたいするわたしたちの忠実な応答はなにかを考えるべきである。
 このように、ざっと書いてみたが、まだ自分の中でしっかりまとまっていないのは、統合から忠実な応答に至る部分であることがよくわかる。