友来る

 海外で働きをしている友人が来る。朝と夜に話をしてもらい、その合間はいろいろと話をする。結局のところ、いい働きをしていると思う。あと、神の恵みについて理解しにくい人々について話をする。彼はいろいろな所をとってきたから、あまり「いい子」でなかったよう。そういう人は、結構、神のめぐみはわかりやすい。
 ついでに、彼の住んでいる地域の人々は、動物が屠殺されたりするのが日常的に行われているので、「キリストの十字架の犠牲」がピンとくるようである。
 日本は共同体が崩壊し、動物などの死、犠牲の死がどこか遠くになり、人の目を気にして生きている社会である。だから、キリストの救いと神の恵みがなかなか伝わらないのかもしれない。
 そう言えば、夜の集会で、「なぜ日本のクリスチャンと他の国のクリスチャンはこれだけ違うのか」とある人が聞いていた。わたしの答えは、「迫害の有無」。生ぬるいクリスチャンの歩みは真剣ではないのだ。だからこそ、信仰を失わせる最高の方法は、迫害をやめ、繁栄を与え、主流派にさせることだ。迫害下、苦しみの中で少数派であり続けるならば、信仰は確かなものとなる。皮肉だ。この当たり、ルイスの「悪魔の手紙」を思い出す。

悪魔の手紙 (C.S.ルイス宗教著作集1)

悪魔の手紙 (C.S.ルイス宗教著作集1)