聖書の持つ三つの側面と霊感

これは現在進行形の考えを勝手に書いているだけです。引用しないように。わたしの意見は変わります。

 聖書には三つの側面があると考えることができる。歴史的、文芸的、そして正典的の三つである。
 歴史的とは、聖書は歴史のプロセスを経て、誕生してきたものであるということ。出来事があり、それに関する伝統があり、著者がおり、編集者がおり、文化があり、社会がある。それぞれが歴史の中でいろいろな要素に影響を受け、それぞれの文脈を経て、現在の形になっている。もちろん、正典としてまとめられたこと自体も、歴史的な側面を持つ。神はこのプロセスに最初から最後まで、それぞれの文脈のなかで働かれた。当然著者に働かれているが、それだけではない。出来事そのものにも、伝統の保存のプロセスにも働かれた。神の霊感は聖書の歴史的な側面のあらゆる部分に見いだすことができる。更に、聖書が歴史的な側面を持つから、いわゆる「歴史的批評学」の健全な使用が聖書の学びに求められる。考古学や社会科学なども用いる必要がある。
 文芸的とは聖書はその最終形態としての文章(テキスト)であるという点である。先に述べたように、歴史的に見ると、聖書の各書はそれなりの歴史的変遷を経ている。しかし、最終的には正典と呼ばれる66巻のテキストとして、わたしたちの前にある。ほとんどの信仰告白は、この66巻のテキストが「神の霊感を受けて書かれた」と告白している。したがった、教会の「神学的考察」は常に最終形態としてのテキストからはじめられるべきである。そして、教会は徹底的にこのテキストにこだわり続けるべきである。したがって、文芸的な方法論は神学的な聖書の考察を行う上で、欠くことができない。
 正典的とは、最終形態としてのテキストがその後の歴史の中で、正典として読まれ、解釈されてきたことを指す。神は時代時代のこのプロセスに働かれた。ただ、聖書の歴史的、文芸的な側面において、聖霊の働きは特別なものであり、正典としての信頼性を確立を保証するものであった。しかし、正典として読まれ、解釈されてきたことは、先の二つの側面とは大きく異なる。このプロセスにおける聖霊の働きは解釈の信頼性を保証するものではないからである(いわゆるinspirationではなくillumination)。しかし、神はそれぞれの時代と場所に聖書を通して働かれてきたことを忘れてはいけない。それと同時に、現代に語りかける主の言葉を聞くに当たっては、この解釈の歴史を知り、その豊かさを知ることが求められる。
 以上の考察からわかることは、聖書の三つの側面すべてにわたっての学びが必要であり、それぞれの側面にはそれぞれにふさわしい手法が必要であるということ。そして、聖書の神学的な解釈を考える場合、文芸的な側面に関するアプローチを中心にしつつ、聖典的な側面に関するアプローチをもって補うことによって、現代に語りかける主のことばを聞く必要がある。