さいはての島へ―ゲド戦記 3

さいはての島へ―ゲド戦記 3

さいはての島へ―ゲド戦記 3

 ゲド戦記を一機に読もうとしている。第三巻目。死について考えさせられる話。

誰だって、何だって、そうだ。永久に生き続けるものなど、ありはしないのだ。ただ、わしらだけは幸いなことに、自分たちがいつか必ず死ぬということを知っておる。これが人間が天から授かったたいへんな贈り物だ。人間であるという・・・な。(p.202)

何となく、コヘレトの発想と似ている点がある。自らは死ぬべきものであるという事実を受け止めることこそ、ゲド戦記で繰り返されているように自らのうちにある(いや、避けることのできない)闇を真っ正面から受け止めることこそ、生きる力となる。だから、「不死」という名の永遠の命を得ようとする行動から世界に悲劇が起こる、という設定にしたのだろう。つまり、死を否定することによって、皮肉なことに、死が生を侵食する。そして、生が力を失っていく。ところが、死を真っ正面から受け止めることによって、生は生として輝く。
 キリスト教的に考える時、キリストの「不死」ではなく「死と復活」という観点でものごとをとらえている点は、ゲド戦記の理解からいっても力だと考えられる。キリストは避けることのできない死を、避けることなく、真っ正面から受け止められた。復活があるから死が軽くなったと考えたとしたら、それは死の現実を重んじる(正統的な)キリスト教思想に反するだろう。キリストは不死を獲得したのではなく、生が死に勝利したのである。このあたりは、もう少し、思索を深める必要があるだろう。