憲法記念日に立憲主義を思う

 昨日の朝日新聞の夕刊に専修大学助教授で憲法学者の田村理が「キムタクの『目』と憲法」と題してコラムを書いていた。キムタクのHEROを引っ張ってきての話だが、立憲主義について考えさせられる。彼曰く、

「『簡単に人を殺せる』ほどの力=公権力に制限を課して濫用を防ぎ、国民の人権をまもる、その手段として憲法を定める。そういう考え方を立憲主義という」。

この発想が自分の中で、日本の中で、政治家の中で、いい加減になっていることを感じた。憲法は権力者の権力を抑制することが目的である。だから、国民の「義務」を語るよりはむしろ、国民の「権利」を語るべきである。そして、国民の信教の自由を踏みにじり続け、靖国に参拝し続ける権力者の行動を抑制するために憲法を用いるべきである。残念ながら、それが行われていない現実はあるが。
 憲法を改正する必要はあるかもしれない。しかし、もう一度、立憲主義について考える必要がある。田村の提案は傾聴に値する。

多くの人にとって憲法は、生存権保障のように国=公権力がしてくれることを定めた法である。国は人権を与えてくれ、僕達を護ってくれる頼もしい「正義の味方」だと感じているのである。憲法の価値を護ろうとするなら、条文を「改めない」ことよりも、僕達のこの権力観を「改める」ことが必要である。

権力を持つ者に対する適切な疑いを持って生きることが大切である。
 そういう意味から考えると、申命記立憲主義の初期的な形を提示している、というDean McBrideの提案は教会にとって意義深い(申命記が王などの権力者に対して制限を与えている点に注目している)。教会が日本の政治に関して何を言うべきなのか、この点からも再考を要するだろう。さらに、教会内の権力者(牧師?有力な信徒?)に制限を課すことも、教会は考える必要があるのではないだろうか。結構、牧師の職権濫用がある現実を踏まえるからだ。そういう意味で、牧師の性善説に立っていると思われる監督制という教会政治の制度は問題がある。牧師であるわたしが言っているのだから、確かだ(?)。